その過程で渋沢は、多くの著名な経営者を輩出してきた。何しろ、そこまで多数の会社経営に1人で関わるのはさすがに難しい。そこで、渋沢の眼鏡にかなった経営者たちが各社に送り込まれ、実務を取り仕切っていた。本連載にも登場した、浅野総一郎や大川平三郎らがそれに当たる。本人たちの回顧の中にも、渋沢とのエピソードが豊富に語られている。
一方で、福沢諭吉の養子である福沢桃介が大正期の「ダイヤモンド」で、渋沢の息のかかった人物ばかりが重用される日本の実業界の実態に「渋沢の門下でなければ人でないかのごとき取り扱いは、ちと笑止と言わねばならぬ」と苦言を呈しているほどに、その影響力は絶大だった。
さて、今回紹介する諸井恒平(1862年6月23日~1941年2月14日)も、渋沢に縁の深い経営者の一人だ。諸井家と渋沢家は親戚に当たり、渋沢の母には小さい頃からかわいがってもらったという。そんな間柄のせいか、渋沢とは“裸の付き合い”だったようで、1930年10月1日号に掲載された「僕の感心した人物・渋沢栄一さん」という談話記事の中には、渋沢の裸姿の話も出てくる。
諸井は渋沢の推薦で日本煉瓦製造に入社。同社の専務をはじめ、東京毛織物や秩父鉄道などで要職を歴任した。秩父鉄道時代には、秩父山系の武甲山を構成する石灰岩の大鉱床に目を付け、1923年に秩父セメント(現太平洋セメント)を設立。「セメント王」と呼ばれる地位を築いた。
諸井の談話記事の中では、秩父の採石場に渋沢を招いた際の思い出話が披露されている。1日がかりの案内で諸井はくたくただったにもかかわらず、渋沢は移動時間、行きも帰りもずっと読書をしていたという話だ。実際に接した本人にしか語れない、リアリティーのある人物描写である。(敬称略)(ダイヤモンド編集部論説委員 深澤 献)
渋沢の裸は桜色
男でも見とれるくらい
「病は自然が治して、体は医者がもらう」というが、今の実業家は、まさにこの医者だ。努力で金をもうけたのではなく、時勢が良かったからもうかったのだ。だからこの頃のように景気が下り坂になれば、てんてこ舞いをする。
本当の戦上手は勝ち戦にも負け戦にもうまくやるだろうに、多くの人は進むことを知って、退くことを知らないから、世の中が悪くなると始末がつかない。真の勉強と努力で成功したのではないからだ。