ところが、オペレーターが「どこのマイクロソフトか?」と訊く。弱った。住所も知らない。それで思い出したのが、「アルテア」をつくったMITS社がアルバカーキーという街にあったことだ。マイクロソフトはMITS社にBASICを売ったのだから、きっと住所も近いはずだと考えて、「ニューメキシコ州のアルバカーキー」と答えた。これが正解で、あっさりと電話はつながった。
ただ、このときビルは外出していた。そして、指定された時間にもう一度電話をすると、電話口にビルが出てきた。何をどう話したのかは、もう覚えていない。ただ、ビルの口数が少なかったことはよく覚えている。それはそうだろう。わけのわからない東洋人がいきなり電話をかけてきて、「あーだこーだ」とまくしたてる。不審に思わないほうがおかしい。
僕は、電話を切られちゃかなわないと、思いの丈を一生懸命ぶつけ続けた。
そして、こんな言葉が口をついて出てきた。
「とにかく、僕たちの会社を見てくれ。こちらから航空券を送るから、一度日本に来てほしい」
すると、ビルはそっけなく、こう返してきた。
「いや。今すごく忙しい。もしどうしても会いたいというなら、君がアメリカに来ればいい。そうしたら会うよ」
彼にすれば、体のいい”断り”のつもりだったのかもしれない。
しかし、僕はこれに食いついた。そして、4ヵ月後の1978年6月に、カリフォルニア州アナハイムで開かれる全米コンピュータ会議(NCC)で会う約束を取り付けたのだ。
僕がビルに頼みたかったこと
4ヵ月後――。
僕は、カリフォルニアに行き、NCCの会場でビルと初めて顔を合わせた。
僕たちは、最初から意気投合した。
二人には、共通点が多かったからかもしれない。ビルも僕も22歳。お互い、大学は休学状態だった。自動車が好きとか、肉が好きとか、そんなことも似てた。そして、何よりも、二人ともに、コンピュータの未来に対する情熱に溢れていた。
当初、面談は30分の約束だったが、時間は延びに延びて、半日くらい話しっぱなしだった。その日のうちに、僕は「ビル」、彼は「ケイ」(Kazuhikoの頭文字「K」)と呼び合うようになった。僕が日本でやっていることにも、興味をもってくれたようだった。
初対面のビルの印象は、非常に真面目な感じがした。オネストというか。それから、ものすごく頭が切れるというか、物わかりがいい感じがした。ただし、なぁなぁの物わかりのよさではなく、非常にシャープに考えて、そして「OK」という感じの即断即決タイプだった。人格的にも非常に素晴らしい人物だと思った。
このとき、僕は「夢」を訴えた。
マイクロソフトのBASICを売ってもらって、自分なりに考えている理想のパソコンをつくりたい。ただし、ビルのBASICは非常によくできているが、いくつかの部分に変更を加えたり、新しい機能を付け加えたりしたい。そうすれば、アップルも、コモドールも、タンディもつくれないような、すごいマシンができる。ぜひ、ビルにも協力してほしい、と。