ただし、「アルテア8800」には、マイコン用の「高級言語」は載っていない。そこで、彼らは、「アルテア8800」を動かす「高級言語」プログラムを書くことを決意する。

 採用したのがBASICという言語だった。BASICは、1963年にダートマス大学で、初心者でも使えるように開発された、大型コンピュータを動かすための高級言語である。しかし、「アルテア8800」のメモリー容量はわずか4キロバイト。アルファベット4000字分に過ぎない。その小さなスペースに、高性能のBASICでプログラムを書こうというのだから、僕に言われたくないだろうが、「クレイジー」としか言いようのないチャレンジだった。

二人の天才は「何」をやったのか?

 しかも、驚くべきことに、このとき、彼らは「アルテア8800」の現物をもっていなかった。

 そこで、ポール・アレンは、インテル「8080」のマニュアルを研究して、ハーバード大学の大型コンピュータに「アルテア8800」の真似をさせるプログラムを書いた。そして、その大型コンピュータの中で、彼らは、4キロバイトに収まるプログラムをBASICで書き上げたのだ。しかも、たった8週間で……。

 奇跡というべきか、天才というべきか。ビル自身は、後年、「このプログラムを書き上げたことを最も誇りに思っている」と語っているが、パソコン黎明期の「神話」のような逸話だと、僕も思う。

 そして、1975年春、彼らは、「アルテア8800」用に書き上げたBASICをMITS社に持ち込み、30万ドルでライセンスを供与。ソフトウェアをコンピュータ・メーカーに売り、ロイヤリティを受け取るという画期的なビジネスモデルを生み出すとともに、この30万ドルを元手にマイクロソフト社を設立する。このとき、ビルは19歳にすぎなかった。

 さらに、彼らは、このBASICを改良するとともに、メーカーの製品に合わせてアレンジする戦略を取る。

 これは賢い。メーカーにとって怖いのはバグだ。ゼロから自社でバグのないプログラムを組むのは至難のワザだから、自然、「アルテア」で実績のあるマイクロソフトのBASICを採用することになる。実際、その後、初期パーソナル・コンピュータ(パソコン)のほとんどに、マイクロソフトのBASICが搭載されていったのだ。

ビル・ゲイツに、いきなり「直電」した

 僕が、1978年2月に、図書館の雑誌で読んだのは「この話」だった。

 マイクロソフトという会社が、インテルのマイクロ・プロセッサー「8080」用のBASICを作って売っている。しかも、1977年に発売され、“パソコン御三家”として話題になっていた、アップルの「アップルⅡ」、コモドールの「PET2001」、タンディの「TRSー80」にも採用されていると書かれていた。

 つまり、マイクロソフトのBASICが、パソコンの標準仕様になるということだ。これを知った僕が真っ先に思ったのは、「このBASICを使えば、自分が理想とするコンピュータを作ることができる」ということだった。

 もちろん、僕は、早稲田大学理工学部の3年生であり、設立したばかりのアスキーという零細出版社の経営者にすぎない。どうやって理想のパソコンをつくるかという構想はあっても、その具体的な手段はわからなかった。

 だけど、ビル・ゲイツに直接会って、僕の思いを伝えたかった。彼が、僕と同い年であることにも興味をひかれた。ビルは1955年10月ワシントン州シアトル生まれ。僕は1956年2月神戸生まれ。日本であれば、同学年だ。

 そこで、その日のうちにビルに国際電話をかけた。

 アメリカとの時差を考慮して、深夜に受話器を取った。電話番号は知らないから、国際電電のパーソン・トゥ・パーソン・コールで、「マイクロソフトのビル・ゲイツにつないでくれ」と頼んだ。