ビルは、僕の話にじっと耳を傾け、理解をしてくれた。しかし、コンピュータをつくることに、彼は興味がなかった。彼は、あくまでソフトウェアに関心があったように思う。ただし、僕からのBASICの変更案には納得して、「君の言うことはわかった。そうしよう」と快諾。そして、意気投合した僕たちは、「一緒に何かをやりたいね」と握手をして別れた。
僕は絶好のポジションにいた
帰国した僕は、「マイクロソフトと一緒に何をするか?」を考えた。
注目したのは、NEC(日本電気)が1976年に発売した、日本初のマイコン・キットである「TKー80」だった。この製品は、もともとマイコンのシステム開発のための教育用キットとして企画・製造されたものだったが、アメリカ発の「革命」に同調するマイコン・マニアたちに熱狂的に受け入れられた。まさに、日本におけるマイコン・ブームの火付け役だった。
ただし、「TKー80」は、コンピュータの部品が搭載されたプリント基板にすぎなかった。そこで、僕は、この「TKー80」に、改良したマイクロソフトのBASICを搭載し、メモリーを増設し、キーボードとディスプレイをつければ、アメリカの”パソコン御三家”を凌ぐパソコンができると考えた。
しかも、僕は『月刊アスキー』の編集記者として、「TKー80」の開発に携わったNECの後藤富雄さん、加藤明さん、その上司の渡辺和也さんたちに何度も取材をして、懇意にさせていただいていた。つまり、マイクロソフトとNECの間に入って、ソフトウェアとハードウェアの調整をすることができる絶好のポジションに僕はいたのだ。
そのことに気づくと、ワクワクが止まらなかった。なぜなら、僕のアイデアを製品に注入することができれば、僕が思い描く「理想のパソコン」の第一号をプロデュースできるかもしれないからだ。それは、僕の「夢」そのものだった。
わずか3ページの「ファミリー」の契約書
このアイデアをもって、僕はアメリカに飛んだ。
今度は、アルバカーキーのマイクロソフト社にビルを訪ねた。アルバカーキーは、ニューメキシコ州の中央部に位置する、日差しの強い砂漠の田舎町だった。共同創業者のポール・アレンも紹介され、3人で長時間にわたって話し合った。二人は、僕の提案にたいへん乗り気で、一気に話は具体化に向かっていった。
もちろん、NECへの売り込みは、僕が担当ということになる。
そして、マイクロソフトBASICの東アジア市場における独占販売権を僕たちの会社に与えるという契約を、マイクロソフト社とアスキー出版は結ぶことになった。
このときの契約書はわずか3ページ。
常識では考えられないくらいシンプルな契約書になったのは、強い信頼関係が生まれていたからだと思う。ビルも、後年、このときの契約を、「弁護士は介在せず、ケイと私の間だけの、ファミリー同士で交わされるような契約だった」と語っている。後に、ものすごく分厚い契約書を正式に交わすことにはなるのだが、あの時の契約に込められた「同志感」を思い出すと、今も胸が熱くなる。
すでに齟齬は内在していた
帰国すると、すぐに株式会社アスキー・マイクロソフトを設立し、僕が社長に就任。NECにBASICの売り込みを始める。最初はまったく相手にされなかったが、それで諦める僕ではない。毎週のように、新たな提案を持って担当者のもとを訪れ、説得に説得を重ねた。
それが実を結んで、1979年に発売される日本初の8ビット・パソコン「PCー8001」に、僕の提案でカスタム化したマイクロソフトBASICが採用されることになった。この「PCー8001」が空前の大ヒット商品となり、日本にも本格的なパソコン時代が到来することになる。そして、アスキーにとっても、マイクロソフトにとっても、非常に大きなビジネスへと育っていくのだ。
ただ、いま思えば、すでに齟齬は内在していたのかもしれない。
僕は、初めてビルに会ったときに、「マイクロソフトの販売代理店にしてほしい」とは一言も言わなかった。そんなつもりは毛頭なかった。僕が求めていたのは、「理想のパソコンをつくる」という一点に尽きたのだ。
だから、僕には、「単なる販売代理店」という認識はなかった。マイクロソフトとさまざまなパソコン・メーカーと協力しながら、「理想のパソコン」をつくるために、あくまで僕は自律的に仕事をするつもりだったし、実際にそうした。しかし、あの契約書はあくまでも「代理店契約」だった。その矛盾が、後にビルと僕の間に亀裂が走る一因になったことは否めないだろう。
株式会社アスキー創業者
東京大学大学院工学系研究科IOTメディアラボラトリー ディレクター
1956年神戸市生まれ。早稲田大学理工学部中退。在学中の1977年にアスキー出版を設立。ビル・ゲイツ氏と意気投合して草創期のマイクロソフトに参画し、ボードメンバー兼技術担当副社長としてパソコン開発に活躍。しかし、半導体開発の是非などをめぐってビル・ゲイツ氏と対立、マイクロソフトを退社。帰国してアスキーの資料室専任「窓際」副社長となる。1987年、アスキー社長に就任。当時、史上最年少でアスキーを上場させる。しかし、資金難などの問題に直面。CSK創業者大川功氏の知遇を得、CSK・セガの出資を仰ぐとともに、アスキーはCSKの関連会社となる。その後、アスキー社長を退任し、CSK・セガの会長・社長秘書役を務めた。2002年、大川氏死去後、すべてのCSK・セガの役職から退任する。その後、米国マサチューセッツ工科大学メディアラボ客員教授や国連大学高等研究所副所長、尚美学園大学芸術情報学部教授等を務め、現在、須磨学園学園長、東京大学大学院工学系研究科IOTメディアラボラトリー ディレクターを務める。工学院大学大学院情報学専攻 博士(情報学)。Photo by Kazutoshi Sumitomo