お金まわりのことは、共同創業者の郡司明郎さんに任せきりだった。
僕はイケイケドンドンだったが、創刊当時、共同創業者の郡司明郎さんは資金繰りにかなり苦労していた。書店に雑誌を置いてもらって売れても、売上金が入金されるのは数ヵ月先だが、印刷所などへの支払いは前金だからだ。資本金の300万円はすぐに消えて、資金が足りなくなってしまったことがある。
このときは、僕が父親に3000万円を借りて凌いだ。父親は名義上、アスキーの社長だったが、どんな会社で何をやっているか、しっかり把握していたわけではなかったと思う。それでも、僕が、「親父、金、貸してくれ」と電話をすると、ポンと振り込んでくれた。当時、日本にはベンチャー・キャピタルなど存在していなかったが、言ってみれば、僕の両親が僕のベンチャー・キャピタルの役割を果たしてくれたのかもしれない。
雑誌、単行本、そしてソフトウェア
『月刊アスキー』で利益が出るようになったのは、創刊して半年が過ぎたころだった。
その間、資金難にも見舞われたが、そのなかで郡司さんが、出版業における資金繰りや経営法を身につけていった。創刊直後から、雑誌は出せば売れる状態が続いたが、部数をいきなり増やすと資金ショートしかねない。そのあたりを慎重に判断しながら、経営の舵取りをしてくれたのだ。
とはいえ、『月刊アスキー』一本では少々心許ない。
当時の日本は、まだマイコン黎明期でスポンサーになってくれるような企業がそれほどなかったから、広告収入もそんなには入ってこない。そこで、僕たちは単行本ビジネスにも参入した。きっかけは、僕のアメリカ出張だった。
アメリカに行けば、当然、書店を回ってコンピュータ関係の最新書籍を物色する。そして、面白そうな本を買い込んできたのだが、そのなかに『101BASIC・コンピュータ・ゲームズ』という本があった。101のゲームを紹介するとともに、それぞれのBASICで書かれたプログラムが記載されているというものだった。
日本でもゲームは人気だったから、面白いんじゃないかということで、これを翻訳出版してみた。すると、思いのほか売れる。これは本気でやらんとアカンとなったわけだが、思わぬ副産物も生み出した。ここから、パッケージ・ソフトのビジネスも派生していったのだ。