ニーズに応えることでイノベーションは起きる
そのきっかけは、『101BASIC・コンピュータ・ゲームズ』の読者から寄せられた声だった。
ある日、ひとりの読者から「プログラムを打ち込むのが面倒だから、ソフトをパッケージにして売ってほしい」という要望が寄せられたのだ。
「なるほど。これは商売になる!」と、僕たちはソフト開発部門をつくることにした。共同創業者の塚本慶一郎さんに責任者になってもらって、『101BASIC・コンピュータ・ゲームズ』に収録されているプログラムをカセット・テープに収録して、パッケージ・ソフトとして発売したのだ。
当時、いくつかの企業がパッケージ・ソフトを売り出していたが、商品パッケージがちゃちだった。そこで、デザインが得意な塚本さんが、綺麗にカラー印刷された化粧箱にカセット・テープを封入するスタイルを打ち出した。これが当たって、ソフトは大ヒット。その後の、国内のパッケージ・ソフトの「原型」となっていく。
これは、ちょっとしたイノベーションだった。そして、このイノベーションは、ユーザーのニーズに必死に食らいつくことで生まれたのだ。大事なのは、ユーザーのニーズに向き合うことだ。そこにこそ、イノベーションの「種」は隠れている。その姿勢さえ徹底すれば、「成功の種」は、そこらじゅうに転がっていると僕は思っている。
アスキーを育てたのは誰か?
こうして、アスキーは雑誌、単行本、ソフトウェアと事業多角化を進めていった。この頃には、僕の父親は社長を退任し、最年長の郡司さんが社長で、塚本さんと僕が副社長という体制に変更。名実ともに「僕たちの会社」になった。そして、「追い風」をいっぱいに受けて、企業規模を急速に拡大させていったのだ。
それに、僕もおおいに貢献したという自負はある。
しかし、『月刊アスキー』創刊から1年ほどたった頃に、僕はビル・ゲイツと出会う。そして、マイクロソフトとの仕事にほぼ全精力を投入していくことになる。だから、株式会社アスキーの企業としての枠組みをつくったのは郡司さんであり、アスキーの出版事業・ソフト事業を育て上げたのは塚本さんである。
その後、お二人とは対立した末に訣別することになるが、僕が、ビル・ゲイツとともに思いっ切り仕事をすることができたのは、彼らがアスキーを守り育ててくれて、西には思う存分好きにさせてやろうというサポートをしてくれたおかげだったと、今は思っている。
また、別れてから塚本さんとも郡司さんとも話す機会があったが、喧嘩したのにすぐに“昔の仲良し”に戻れたのは、二人の僕に対する優しさのおかげであると感謝している。
株式会社アスキー創業者
東京大学大学院工学系研究科IOTメディアラボラトリー ディレクター
1956年神戸市生まれ。早稲田大学理工学部中退。在学中の1977年にアスキー出版を設立。ビル・ゲイツ氏と意気投合して草創期のマイクロソフトに参画し、ボードメンバー兼技術担当副社長としてパソコン開発に活躍。しかし、半導体開発の是非などをめぐってビル・ゲイツ氏と対立、マイクロソフトを退社。帰国してアスキーの資料室専任「窓際」副社長となる。1987年、アスキー社長に就任。当時、史上最年少でアスキーを上場させる。しかし、資金難などの問題に直面。CSK創業者大川功氏の知遇を得、CSK・セガの出資を仰ぐとともに、アスキーはCSKの関連会社となる。その後、アスキー社長を退任し、CSK・セガの会長・社長秘書役を務めた。2002年、大川氏死去後、すべてのCSK・セガの役職から退任する。その後、米国マサチューセッツ工科大学メディアラボ客員教授や国連大学高等研究所副所長、尚美学園大学芸術情報学部教授等を務め、現在、須磨学園学園長、東京大学大学院工学系研究科IOTメディアラボラトリー ディレクターを務める。工学院大学大学院情報学専攻 博士(情報学)。Photo by Kazutoshi Sumitomo