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この連載では、著者の読書猿さんが「勉強が続かない」「やる気が出ない」「目標の立て方がわからない」「受験に受かりたい」「英語を学び直したい」……などなど、「具体的な悩み」に回答。今日から役立ち、一生使える方法を紹介していきます。(イラスト:塩川いづみ)
※質問は、著者の「マシュマロ」宛てにいただいたものを元に、加筆・修正しています。読書猿さんのマシュマロはこちら

9割のコミュニケーションの齟齬は「自分と他人は同じ」という思い込みから始まるPhoto: Adobe Stock

[質問]
聴こえているとはどういうことなのでしょうか? 聴こえていると聴こえていないにはどのような違いがあるのでしょうか?

 私は、聴覚障害をもっています。右耳は全く聞こえませんが、左耳は補聴器をつけると1m以内の静かな環境で1対1であれば普通に会話ができます。1m以上離れていたり、複数人での会話は聞き取れません。音があることは分かっても言葉として認識するのが難しいことも多いです。

 私は空調の音とはどんなものか知りません。後ろから来る音(車など)が聞こえてきて避けるとは、どのような感覚なのか分かりません。人の気配がどのようなものか知りません。皆、音が鳴っている方向が分かるそうですが、一体それがどういうことなのか分かりません。これらのことは、他人に教えてもらって初めて知りました。

 職場で、私はよく、突然の出来事に驚きます。急に知らないおじさんが見学に来ます。急に新しいメンバーが増えています。どうやら人々はそこかしこで他愛のない会話や雑談をしていて、そこで情報共有がされているようです。皆、自分に向かって話されていなくても、自然と噂話が耳に入ってくるようです。

 聴こえているとはどういうことなのでしょうか? 聴こえていると聴こえていないにはどのような違いがあるのでしょうか? 自分が聴こえていない音の存在は、そもそも認知していないので、自分がどのような情報を取りこぼしているのかが分かりません。どうしたら自分の知らない音を知ることできるのでしょうか?

「〇〇という音/会話の存在に気づいていない」という事実に気づけないので「〇〇という音/会話を知らせてください」とお願いすることができなくて困っています。

 私にとっては聴き取りづらいことが当たり前なので、どんな風に聴こえているのかを説明する術を持っていません。普通の人はこんな風に聞こえるけれど、私はこんな風だ、と違いを説明したいのですが、普通が分からないので、説明に苦慮しています。どのようにすれば、自分の置かれている状況を分かりやすく説明できるようになるでしょうか?

(仕事をする上で重要なことは、間違いなく知らせて下さるので、有り難いことに、仕事自体はできていて、本当に感謝しています。ただ…もし…許されるのならば、皆さんが当たり前のように受け取っているものを、私も受け取れるようになれたら嬉しいな、と思っています。これはわがままなのかもしれませんが…)

 もしよろしければ…読書猿さんの知恵をお借りできますと幸いです。

「自分と他人は同じ」と勝手に思い込んでいない分、あなたは有利

[読書猿の回答]
 難しいご質問ですが、まず「聞くこと」と「見ること」の違いを手がかりに考えてみましょう。その後、私達は自分の「目や耳以外のもの」を通じても、世界を知ることができることをご紹介したいと思います。

 ヒトの目は顔の前面に二つ並んでいて瞼を持ち、水晶体というレンズの厚みを変えてピントを合わせて網膜に像が結ばれます。そのため何かを見るためには、目を開き、その何かに顔を向けてピントを合わせること、まとめるとその何かを「見ようとする」必要があります。

 これに対して耳は、顔の左右両側についていて閉じる機能を持ちません。顔や体の向きを変えなくても360度どの方向から来る音も耳に入ってきます。そのために目と違って、「聞こうとする」ことなしに「聞こえる」、もう少し強く言えば「聞きたくなくても聞こえてしまう」ことがあり得ます。

 しかし我々の周囲で発生する音は膨大で、そのすべてに振り向けるには、注意という認知資源は足りません。耳に入ってくる音のうち、ごく一部だけに注意は向けられ、残りのほとんどの音は意識されません。

 この「ある音だけを選択して注意を向けるプロセス」は脳の中で行われるので、外からその人を観察しても今どの音に注意を向けているかは分かりません。自分の思考に集中して外からのどの音にも注意を向けていない(「何も聞いていない」)場合も、次々に注意を向ける音を変えている場合も、不意な物音に注意を持って行かれる場合もあります。

 まとめると、見ることについては体の向き、顔の向き、そして目の向きを観察することで、「何を見ているか」を推測することはいくらか可能ですが、しかし、聞くことについては「何を聞いているか」は、外から知ることがとても難しい。

 他の人が「何を聞いているか」知ることは難しいので、聞こえる人たちは「自分に聞こえている音は、相手にも聞こえている(耳に届いている)」ことを前提するだけでなく、さらに強く「自分が聞いている音を、相手も聞いている」と自己中心的な仮定を無自覚に置きがちで、そのために多くの誤解と齟齬が生まれています。

 そして実は、この自己中心的な仮定を置くか置かないかが、周囲の人とあなたの一番の違いではないかと、私は思います。

 あなたは、自分とは違う「聞こえるヒト」たちと一緒に仕事をしており、周囲の人は自分とは違うのだと、不断に意識しているので、上記のような自己中心的な仮定を置きません。このことはご質問にもあった、周囲の人たちは私とどう違うのか知りたいと述べられていることからも明らかです。

 そして自己中心的な仮定を置かないのであれば、楽なことではありませんが、ヒトは自分が思っている以上のことを知ることができます。

 盲導犬と長年連れ添った視覚障害を持つ方の言葉だったと記憶するのですが、パートナーである盲導犬の反応がハーネスから手へと伝わって、その日の空の青さを知ることができるとその方は言っておられました。

 実は同じことは我々の日常にも起こっています。例えば親しい誰かと食事をするとき、私たちは自分の味覚や嗅覚を通じてだけでなく、目の前の人が食事を口にして喜ぶ笑顔や漏らす言葉を通じても、その食事を味わっています。

 聴覚に話を戻しましょう。先に、どの音に注意を向けているか、外からの観察では知ることはできない、と言いましたが、実は推測は可能です。私たちが何かを聞けば、その音に注意を向ければ、私たちの意識は必ず変化し、意識の変化は表情や動作に自ずから現れます。

 こうして、私たちはある音を、自分の耳だけではなく、他の人達の耳を通じて、すなわち、同じ音を聞いた周囲の人たちの反応とその変化を見ることを通じて、聞くこともできる(少なくともその可能性は開いている)のだと思います。