20世紀のサッカー界を代表するスーパースター、ディエゴ・マラドーナが現地時間11月25日に、母国アルゼンチンの自宅で心不全により死去した。60歳になった直後に届いた突然の訃報に世界中が深い悲しみに暮れている。出場した4度のワールドカップと日本サッカー界との間で紡がれてきた縁を介して、波乱万丈に富んだレジェンドのサッカー人生をあらためて振り返った。(ノンフィクションライター 藤江直人)
マラドーナ初来日は「ラッキー」だった
4年ごとに開催されるワールドカップに4大会連続で出場。優勝と準優勝を一度ずつ経験した軌跡の中で日本サッカー界とのポジティブな接点が何度も生まれ、後にはネガティブな理由で立ち消えになった、波乱万丈に富んだサッカー人生を送ってきたマラドーナが天国へ旅立った。
ごく近い将来に必ず、世界サッカー界の頂点に君臨するスーパースターになる――日本のサッカーファンや関係者に確信を与えたのが、1979年8月から9月にかけて日本で開催された第2回ワールドユース選手権(現FIFA・U‐20ワールドカップ)だった。
初出場したアルゼンチン代表は決勝までの6試合で20得点、2失点と圧倒的な強さを発揮して優勝。20歳以下のホープたちをキャプテンとして率いたマラドーナは、6ゴールをあげてMVPに輝いた。もっとも、マラドーナの来日は大会誘致に奔走した関係者にとって望外の喜びだった。
マラドーナは16歳だった1977年2月に、ハンガリー代表との国際親善試合でフル代表デビューを果たしていた。翌年に母国で開催されたワールドカップでは最終候補25人の中に残りながら、当時のセサル・ルイス・メノッティ監督の判断で大会登録メンバーから外れている。
アルゼンチンはワールドカップ初優勝を成就させたが、マラドーナは「私の人生に永遠に残る、最も大きな失望だった」と後に語っている。そして、落選理由とされた経験不足を吹き飛ばすかのように、1979年6月のスコットランド代表との国際親善試合では代表初ゴールを決めている。
ワールドカップ連覇を目指すアルゼンチン代表で、確固たる居場所を築きつつあった。だからこそ、あえてカテゴリーを下げる形でワールドユースに臨む代表メンバー入りしたマラドーナに驚き、サッカー人気がまだ根づいていなかった日本を盛り上げた圧巻のプレーの数々に感謝した。