想定外のコロナ禍、二律背反に陥る

 エンブレム盗用疑惑、国立競技場案撤回、招致疑惑、マラソン会場移転など順風満帆とは言えなかったが、数々の難儀を克服してきた。そして、2020年オリンピックイヤーに入り、まさに準備に拍車がかかるところで、コロナ禍に突入した。

 バッハ会長は東京五輪組織委の運営能力には高い信頼を置いてきた。2018年11月に日本で初めて開催された国内オリンピック委員会連合総会で、「まだ2年あるというのにここまでの準備を整えていた組織委を私は知らない」と大絶賛した。この組織委であればコロナ対策も万全に行うだろうと思っていたはずである。

 しかし、これまでの問題と根本的に違うところは、コロナ禍でのオリンピック開催はアンチノミー(二律背反)に陥ることだ。コロナはスポーツの本質である身体と身体の接触を否定する。またオリンピックが求める人と人との出会いも否定する。

 ソーシャルディスタンスを保ちながら、人と人が触れ合うのは難題だ。コロナ感染を回避しつつ、人と人とがつながる道を求めなければならない。難題だが答えを見つけないと、スポーツもオリンピックも存在できないこととなる。

 今、第3波が世界を襲い、先が見えない状況の中でも、東京五輪が掲げるビジョン「スポーツには世界と未来を変える力がある」を持ち続けられるだろうか?それぞれが自らの答えを出すことを迫られているのではないか?今、菅首相、小池都知事、森組織委会長にその回答が求められる。

 オリンピックは1896年に第1回大会が開催されてから、徐々に種目数も増え、参加国数も増え、大きくなってきた。休戦思想は参加国数が増えれば増えるほど、世界平和構築に寄与することになる。肥大化と批判されることが多いが、オリンピックの進化はそのために必要なことであった。また、商業主義化は財政基盤の確立による政治からの自律が目的である。

 しかし、コロナはそのオリンピックに反省を迫っている。もはや、史上最大の参加選手数を誇ることも、史上最大の観客動員数を記録することも、はたまた史上最大の収益を上げることも目標にできない。

 コロナがあってもできるオリンピックを求めるには、医療体制の完備、リモートワークの徹底、感染抑制対策の追求が必須である。その上で、可能な限り選手数を抑え、役員数を削減し、観客を管理する努力を続け、経費の節約に励む。それはこれまでの限りなき進化を続けてきたオリンピックとは違う、トーンを抑えた質素なオリンピックになるだろう。

 しかし、そこに「スポーツは平和的な競争の中に全ての人々を参集する力がある」ことを示すことができれば、史上最高の五輪とは言われないが、やがて実現するコロナを超克したオリンピックを作る「隅の親石」になれるのではないか?

 それはただオリンピックのためだけでなく、ウイルスに対応できる社会機構の構築にもつながる。
 
 東京五輪2020の使命はそこにあると私は思う。