怒りや悲しみが、社会問題をネタにする原動力
──村本さんが、社会問題に興味をもちはじめ、それを発信しようと思ったきっかけは何だったんでしょう?
村本「ABEMA Prime」っていうニュース番組ですね。そこにMCに呼ばれて番組に出て、いろいろわからないから勉強していたんです。で、わからないことを正直に「わからない」って言ったら、すごく珍しがられて。そこから、いろんなロケに行かされるようになったんですよ。被災地とかね。
最初は「一緒に行ってくれ」って言われても、そんなに行きたいわけじゃなかったんです。ただ、現地の人と話して仲よくなってくると、彼らが「自分の言いたいことを言えない状況」を抱えていることがわかってきた。我慢している人が多いんだとわかったんです。
──現場を見て感じることがあったと。
そう。それで、ちょうどその頃、ずっと同じネタで漫才をやっているのが退屈になってきてたんですよ。そのときまでよくやっていたのが、「バイトリーダー」というネタ。ただ、それ、僕がバイトをやってたときのネタなんですよね。ウケるから、劇場でもまぁよくやってたんです、バイト辞めたあとも。
でも、もうバイトをやってないのに、バイトリーダーのことをネタにしているときの……なんて言うか「笑いを取るためにお笑いをやっているという虚しさ」みたいなものを感じてしまって。
バイトやってたときは、きちんと自分のバックボーンから言葉が出てきた。だから、「バイトをやっていて、バイトリーダーから受けた屈辱や悔しかったことをネタにしよう」と思ってやってきたけど、今も同じネタをやることに違和感が出てきて。
バイトやってないくせに、無理やり悔しさを捏造してお笑いをしてる感じが、虚しかったんです。お客さんは笑ってましたけども、絶対どこかで気づいてると思うんですよね。笑いが「芯まで響かない」感じ。
そんなときに、被災者の方たちと話すようになって、アルバイトしていたころに抱いていた不満や理不尽への怒りのようなものが湧き上がってきたんですよね。それで、「あ、これ、あのときと同じようにネタにできるぞ」って思ったんです。
――本にも書かれていましたが、村本さんのネタや表現のルーツは「憎しみ」や「悔しさ」に起因することが多いんですね。
村本 そうなんですよ。本にも書きましたが、バイトリーダーのネタも、バイトリーダーへの復讐心をネタで表現しただけで。今の漫才にしても、結局、社会問題を発信したいというより、自分がたまたま出会った人たちから聞いたことが自分の感情に直結して、それが蓄積されて、漫才になったという感じですね。
自分の表現で、誰かの「快」を生み出したい
――村本さんにとって、理想としている「笑い」のかたちはありますか?
村本 もちろん笑いを取るのが仕事で、笑いを取るために仕事をしてるんですけど……自分の言葉と心が連動してない言葉を吐いている感じがすると、虚しいですよね。
僕は、心で感じたものをいつも頭のなかに運んでおいて、それをいったん整理して、口から吐いて、そして笑わすっていうのがお笑いだと思ってるんです。一番いいときはいつもそういう流れでつくってるんですよ。社会問題についてネタにしてますけど、単に「今、心が動いたことを言葉で描きたい」というだけなんですよ。
心が動かずに、頭だけで人の心を動かそうしているときは、やっぱりある程度ウケるんだけど、誰かの心は動かせない。だから、漫才のあとに、「不快」とか「痛快」とか、そういった「快」っていう文字が出るような感想があればいいと思っています。今回出したこの本の感想も、「不快」でもいいんですよね。とにかく、心に伝わればいいなと思う。
この前も、年に1回ある「THE MANZAI」っていう漫才番組でバーッと吐き出したんですけど、「あんなもの、フジテレビで放送するなんて、カルトだ」「『THE MANZAI』であんなことやっちゃいけない」っていう意見がたくさん出た。
それ、すごく面白いなと思った。キリスト教が日本に入ってきたときも、日本人はすごく不快な気持ちになって排除しようとしましたよね。ただ、キリスト教に救われた人も多くいたわけですよ。ある種、僕の漫才っていうのは、その状況と似てるのかなと思います。異物感はすごいし、不快に思う人も多いかも知れないけど、僕の漫才に救われる人も確実にいる。そういう人たちに響けばいいなと思っています。