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この連載では、著者の読書猿さんが「勉強が続かない」「やる気が出ない」「目標の立て方がわからない」「受験に受かりたい」「英語を学び直したい」……などなど、「具体的な悩み」に回答。今日から役立ち、一生使える方法を紹介していきます。
※質問は、著者の「マシュマロ」宛てにいただいたものを元に、加筆・修正しています。読書猿さんのマシュマロはこちら
[質問]
恋はどのようなものだと考えますか?
私は現在ハイティーンも終わりかけで、いわゆる青春なるものの半ばを過ぎ、現実の厳しさが少しずつではありますが見えることも増えてきています。その中で、人間関係に悩むことも増えてきていて、ふと、疑問に思うことがあります。
恋とは実際のところ何なのか。
私は家族に愛されて育ちました。だから、愛情のイメージは家族です。
それから、10年以上付き合いが続く友人がいます。その人のことを考えると、たくさんの思い出とともに温かい気持ちがわいてきます。これが友情なのだろうと思います。
けれど、恋情に関してはただただ真っ白なままでどのようなものか皆目検討がつきません。
「好きな人がいる」と私に相談してきた友人は、先日無事に交際をスタートさせたようで、今はとても楽しそうにしています。
私にはその友人の気持ちが最初から最後までよくわからないままでした。
読書猿さんは、恋はどのようなものだと考えますか? 恋情とは、どのような気持ちを指すと思いますか?
よろしければ、お考えをお聞かせいただきたく思います。よろしくお願い致します。
恋はもともと「呪術」でした
[読書猿の回答]
ざっくり言えば、恋する者同士は互いに魔法を掛け合って、相手の魂を自分の方へ引き寄せようとするのですが、そうまでしようとする気持ちを私達は恋と呼んでいます。
恋の動詞形「恋う」は、折口信夫によれば、対者の魂を自分の方へ招致しようとすることで、この呪術をタマゴヒ(招魂法)といい、後にもっばら男女間の恋愛呪術の名に使われるようになりました。さらに、その動機となる心情のことを恋(こひ)と呼ぶようになった、と言っています。
つまり恋とは、元々は、ただ異性が好きになるという意味ではなくて、「威霊あるものを迎えること」「威霊を自分の方へ移させること」だったと折口はいうわけです。
この相手の霊魂を招き寄せる呪力が働くからこそ、恋をしている人たちは、相手のことを過度に美化したり、神格化したりもするわけです。
江戸後期の国語辞書である『倭訓栞(わくんのしおり)』には、
「恋は人情の切実をいへば、乞求るの儀なるべし、恋々てとも見ゆ。
和歌に恋部を立て四季に次つるは、有天地然後有男女の義、我邦天の浮橋のむかしより、諾冊唱和の詞に起こりて、造端於夫婦の教を設けり。
此恋の情実を失はば、忠孝も本づく所なく、礼儀も措く所あらじ。」
(注)
有天地然後有男女:天地ありて、しかるのち男女あり
諾冊:伊奘諾尊(いざなぎのみこと)と伊奘冊尊(いざなみのみこと)
造端:始まる。初めをなす。
といって、ここで俊成の歌を引いて来ます。
「恋せずば人は心もなからまし物のあはれもこれよりぞ知る」(長秋詠藻 藤原俊成)
(恋をしなければ人は心がないようなものだろう。物のあはれも、恋をすることで知るのだ)
『和訓栞』の著者、谷川士清(たにかわことすが)は伊勢の人で、本居宣長とも親交があった人です。その宣長ですが、あるとき歌会仲間に、この歌の「物のあはれ」って要するになんなの? という質問を受けました。分かっていたつもりだったのに、答えようとすると答えることができなかった宣長、考え込み、考えに考え、とうとう長年考えてきた、歌とは何か、なぜ人は歌を詠むのか、の答えを見つけます。エウレーカ。
「大方歌道はアハレの一言より外に余義なし、神代より今に至り、末世無窮に及ぶまで、よみ出る所の和歌みな、アハレの一言に帰す、されば此道の極意をたづぬるに、又アハレの一言より外なし、伊勢源氏その外あらゆる物語までも、又その本意をたづぬれば、アハレの一言にてこれをおほふべし、孔子の詩三百一言以蔽之曰思無邪との玉へるも、今ここに思ひあはすれば、似たる事也、すべて和歌は、物のあわれを知るより出る事也、伊勢源氏等の物語みな、物のあはれを書のせて、人に物のあはれを知らしむるものと知るべし、是より外に義なし」(本居宣長「安波礼弁」)