平凡でかけがえのない日常のために
私がじっと黙っていれば、夫は穏やかに生きていけるかもしれないが、言えずにため込んだ感情でこっちが壊れていってしまうのは明らかだった。
私は自分を守るため、ときには夫にとって都合の悪い話を切り出すしかなかった。
そのたびに、私と夫はあたかも韓国の女性代表対男性代表のようにぶつかりあった。でも、そのときできた亀裂のおかげで、私たちは堅固だった相手の世界を少しずつ覗き見ることができるようになった。
相手が嫌がる役割を無理強いせずに、お互いに満足のいく人生を生きるために、カップルとして手をつないで歩いていくために、私たちにとってはフェミニズムが必要だった。
このぐらぐらするシーソーの上でバランスを取って生きていくためにも、フェミニズムのひとかけらを私の人生に引き入れないわけにはいかなかった。
つまり私がフェミニズムに関心を持ったのは、世の中を変えたり、闘ったりするためではなく、自分の平凡でかけがえのない日常のためだったのだ。
いま、社会でフェミニズムがどう定義されていようと、フェミニズムが目指すところは、男女がお互いの自由としあわせを損なうことなく、健全なかたちで一緒にいられるようにするということだと信じている。
それでもまだ、自分を「フェミニスト」と呼ぶには、いささか抵抗を感じる。
ほんの数年前まではなじみのうすかったその言葉には、近づきたい気持ちはあっても、一歩引いて眺めるにとどめておきたいという思いもなかなかぬぐいきれない。
それでも、ほんのわずかずつでも努力したい。指先に感じるネコの毛のやわらかい感触に安心しつつ、もういっぽうの手で一人静かにネームタグをつけてみることにする。ただ自由でしあわせになるための、フェミニストというネームタグを。
(本原稿は『フェミニストってわけじゃないけど、どこか感じる違和感について──言葉にならないモヤモヤを1つ1つ「全部」整理してみた』のまえがきより一部を抜粋・編集したものです)