差別の原因の根本にある
「穢れの思想」の正体

 筆者はこの原因の根本にあるのは、昔から日本人が持つ「穢(けが)れの思想」にあると考えている。「穢れ」とは一体何か? それは衛生的に汚いということではなく、人間の感情が生み出すもののことである。具体的な例を考えてみよう。例えば、自分の父親が使っている箸、それをアルコールと熱湯消毒で完全に滅菌した後、あなたは使うことができるだろうか? あるいは他人が使った歯ブラシも同じように完全滅菌消毒したものを使えと言われたらどうだろう? 平気で使える人はほとんどいないだろう。

 でもそれらは物理的・科学的には完全に滅菌され、何ら問題のないものである。それでもどことなく使うには抵抗がある。これが「穢れ」の正体なのだ。面白いことに食堂に置いてある箸やレストランで出てくるナイフやフォークにはそれほど抵抗感はない。誰もがみんな共同で使っているものではなく、誰か特定の人が使っていたものを使うことに抵抗があるのだ。これが“穢れ”の正体である。

 あるいはこんな例はどうだろう。最近の若い人にはピンとこないかもしれないが、60代以上の人なら経験があるだろう。昔は道を歩いていると犬の糞(ふん)などが道ばたに落ちていた。小学校の帰りに間違ってそれを踏んでしまった場合、その子は“穢れた状態”になってしまい、それを解消するためには誰か人にタッチすればよいとされていた。

 もちろん周りの友達は触られたりタッチされたりするのを避けて逃げようとする。別にその子が踏んづけた糞をなすりつけようというわけではない。靴に付いた糞とは関係のない手で触るだけで穢れが伝染すると考えるのだ。

 そこでその伝染を防ぐためにどうすればいいか? 子供たちの間では人さし指と中指を交差させて「エンガチョ」と叫べば、仮に触られても穢れの伝染を防止できるとされていた。実にたわいのない話であるが、この経験がある年配の人は多いだろう。地方や時代によってその言い方は異なり、「びびんちょ」とか「バリヤー」という言い方をすることもある。

 実はこの所作は昔からあるようだ。13世紀ごろに描かれた「平治物語絵詞」には、平治の乱で自害した信西入道(藤原通憲)の生首が薙刀(なぎなた)にくくりつけられている様子を見ている人々が、人さし指と中指を交差させている図が描かれている。これは「死」の穢れが伝染するのを防ぐために行っているわけで、平安時代から「エンガチョ」が存在したということは、日本人はかなり昔からこの「穢れの思想」を持っていたということになる。