文章術を説く本は山ほどありますが、プロのライターになるための教科書は存在しません。ゆえに、ほとんどの書き手が自己流で仕事をし、その技術は継承もされなければ向上もしないという悪循環に陥っています。こうした状況に強い危機感を抱いたのが、世界的ベストセラー『嫌われる勇気』の共著者で、日本トップクラスのライターである古賀史健氏。古賀氏は書くことの大前提にある「考える技術」「考えるためのフレームワーク」さえ身につければ、誰もが素晴らしい書き手になれると断言します。古賀氏の熱と思考と技術のすべてを詰め込んだ新著『取材・執筆・推敲』は、まさに「書く人の教科書」! 本連載では同書冒頭の『ガイダンス──ライターは「書く人」なのか』を5回に分けて紹介していきます。今回はガイダンスの最後に、ふたたび「ライターの定義」について。

ライターとは何者で、何を書く人のことを指すのか?Photo: Adobe Stock

ふたたびライターの定義について

前回より続く)

 ライターの主戦場が「出版」だった時代、ライターと編集者はきれいに分業できていた。出版社には編集を専業とするプロの編集者がいて、さまざまな知見(ちけん)が蓄積され、継承されていた。ライターは「書くこと」だけに専念していれば、それでよかった。

 しかし、2010年代に突入したあたりからその図式が崩れていく。

 いま、ライターを名乗る人のほとんどは「ウェブ」を主戦場としている。それ自体はまったく自然な流れだし、ウェブメディアだからこそできることも多い。問題は、オウンドメディアを筆頭に、専業の――あるいはプロと呼べる――編集者を持たないメディアが急増していることだ。一般にウェブディレクターと呼ばれる彼らの多くは、アクセスデータを読むことはできても、編集ができない。進行管理はできても、編集ができない。そのため、つくられるコンテンツの多くは「いま流行(はや)っているもの」や「最近数字がとれたもの」の後追いになってしまう。残念ながら世のなかにあふれるコンテンツの質、その平均値は明らかに減退している。

 では、どうすれば魅力的で、ほんとうに価値のある、長く愛されるコンテンツをつくることができるのか。

 ライターが、これまで以上に「編集」に踏み込んでいくしかない。場合によっては編集者が担っていた「誰が、なにを、どう語るか」というパッケージの設計にまで、踏み込んでいくしかない。編集者の育成・養成は、われわれライターの関知できる範囲にない話だ。

 おそらく、いまウェブを主戦場としながら人気を集めているライターたちは、文章力以上に「編集力」の確かさで支持を得ている。今後、ライターと編集者の境界線はますますあいまいになっていくだろう。

 そのうえで、あえてライターの定義について考えたい。

 ライターとはなにか。先に述べた「コンテンツをつくる人」は、小説家や詩人たちにも当てはまる定義だ。そうではなく、もう一歩踏み込んだ「なにを書く人のことを、ライターと呼ぶのか」について考えてみたい。

 そもそもライターとは、からっぽの存在である。

 天才物理学者の知識も、合衆国大統領の経験も、シェイクスピアのひらめきも、なにひとつ持ち合わせていない、からっぽな人間だ。

 だからこそライターは、取材する。

 からっぽの自分を満たすべく、取材する。

 自分と同じ場所に立つ読者に代わって、取材する。

 誰かの書いたものを読み、誰かのつくったものに触れ、誰かの語ることばに耳を傾け、しつこく何度も問うていく。それはなにか。なぜそうなるのか。そのときなにが起こり、あなたはどう思ったのか。人に、書物に、その他のさまざまに、たくさんの問いをぶつけ、できうるかぎりの理解につとめていく。

 問いの矛先(ほこさき)は、自分にも向けられる。お前はいまの話を、どう読んで、どう聞いたのか。ほんとうに理解したといえるのか。どこまでがわかっていて、どこから先がわからないままなのか。ジグソーパズルのピースは、あと何枚足りないのか。しつこく自分に問いかける。

 そうして自分に理解できたことだけを、あるいはそこから立てた自分なりの仮説を、系統立ててまとめていく。ひとつのコンテンツとして、仕上げていく。たとえばソクラテスの弟子、プラトンがそうしたように。あるいは親鸞(しんらん)の弟子、唯円(ゆいえん)がそうしたように。

 つまり、からっぽのライターは、本質的に「取材者」なのだ。取材なしでは、なにひとつとして価値あるものを生み出せない人間がライターなのだ。

 だとした場合、ライターはなにを書いているのか?

 小説家が小説を書き、詩人が詩を書き、エッセイストがエッセイを書くのだとした場合、ライターはなにを書いているのか?

 取材したこと、調べたことをそのままに書くのがライターなのか?

 違う。ぜったいに違う。

 ぼくの答えは、「返事」である。

「わたしは、こう理解しました」

「わたしには、こう聞こえました」

「わたしはこの部分に、こころを動かされました」

「わたしだったらこんなことばで、こういうふうに書きます」

「なぜならあなたの思いを、ひとりでも多くの人に届けたいから」

 それがライターの原稿なのだ。ライターは、取材に協力してくれた人、さまざまな作品や資料を残してくれた作者、その背後にある文化、あるいは河川(かせん)や森林などの自然に至るまで、つまりからっぽの自分を満たしてくれたすべての人や物ごとに宛てた、「ありがとうの返事」を書いているのである。

 取材相手への敬意が深いほど、返事はていねいになるだろう。取材相手を軽んじているほど、返事は雑になるだろう。返事(原稿)には、取材者としての姿勢がかならず反映される。

 ライターとは、「取材者」である。

 そして取材者にとっての原稿とは、「返事」である。

 取材者であるわれわれは、「返事としてのコンテンツ」をつくっている。

 このことばを胸に、「取材・執筆・推敲」の具体を考えていこう。そう、まだまだガイダンスを終えたに過ぎない。本論はここからはじまるのである。