「活発な議論」のない会議は、やる意味がない
数年前、カーネギーメロン大学、MIT、ユニオンカレッジのチームが、会議の参加者には測定可能な「集団的知性」があるかどうかについての検証を試みた。
約700人を小グループに分け、思考のさまざまな側面を測定するための課題を与えた。創造的な思考が問われるものや、論理的なもの、交渉に関するものもあった。
その結果、重要な発見が2つあった。
1つは、成績が良かったグループにはすべての課題で良い成績を上げる傾向があり、成績が悪かったグループにはすべての課題で成績が悪い傾向があったこと。
もう1つは、個人の知性がグループのパフォーマンスには直接的な影響を与えなかったことだ。際立って頭の良い人がメンバーに含まれていても、それだけではグループ全体の成功は保証されなかった。
重要だったのは、メンバー同士のコミュニケーションの方法だった。失敗したグループは、1人か2人のメンバーが主導権を握っていたが、成功したグループは民主的で、全員が同程度に意見を述べていた。
研究者は「発言の順番が平等な方法で決められていた」と観察している。
研究を率いたアニタ・ウィリアムズ・ウーリーは言う。「全員が話す機会を得ていたグループの成績は良かったが、1人または限られた数のメンバーのみが発言しているグループでは集団的知性が発揮されていなかった。平等に発言するグループには高い集団的知性が見られた。全員が発言することで多角的な意見が得られ、それに基づいて全員で考察をするからだ」
ベゾスが導入している「会議前の黙読」についてはどうだろうか?
パワーポイントのプレゼンテーションやアジェンダ中心の会議を止め、熟考する時間を設けることで、会議は平等な議論の場になりやすい。
それはウーリーらが発見した集団的知性の強力な推進力である、平等な発言を促すものだ。良い会議とは全員が参加する会議であり、全員が準備をして自信を持って議論に貢献できるようなものにすべきだ。
もし、この理想的な条件を満たしていながら、まだ貢献していないように見える参加者がいるのなら、その人はその会議に出席すべきではないのかもしれない。
会議で良い意思決定と問題解決をするためには、活発な議論が欠かせない。それを達成できないのなら、その会議は開催される価値がないのだ。