でも、看護師である私がいくら張り切ったところで、患者さん側にもそういう意識がなければ、すべては空回りに終わってしまいます。
 患者さん側にもいろいろと考えてもらったり、ご家族で話し合ってもらったりすることが不可欠なのです。
 それなしでは、思いが同じでも現実にはすれ違いが生じてしまいます。

 たとえば、入院に際して「延命治療は望みません」という患者さんのひと言があったとしましょう。
 患者さんやご家族は「これで自分たちの希望も伝えた」と安心しているかもしれませんが、そうではありません。
 じつは「延命治療」にはさまざまな考え方、解釈があるのです。

 寝たきりで意識がなくなってもできるかぎりの治療をすることが延命治療と思っている人もいれば、救急的な救命措置こそが延命治療と考えている医療関係者もいます。延命治療に対する考え方は百人百様、まちまちなのです。
 本人が思う延命と家族が思う延命、私が看護師として思う延命、他の医療者が思う延命、それらはすべて違うといっても過言ではありません。

 ですから、医療の現場ではこんなことがよく起こります。
「父は、『延命治療はしないでほしい』と言っていました。ですから延命治療は望みません」

 そう言うご家族の隣で、当の患者さんがベッドでたくさんの管につながれ、うつろな目でボーッと空を見上げている……。
「もう十分、延命治療されているのではないですか……」
 そう言いたくなるようなシーンをずいぶんと見てきました。
 こんなすれ違いがこれ以上起こらないためにも、患者さんを含めての家族同士や、家族と医療者との間での腹を割った話し合い、お互いの考え方の共有が必要なのです。

 そもそも医療や延命とは、どうすごしたいか、どう生活したいか、それを叶えるための手段のはずです。
 それなのに、医療を受けることや延命自体が目的に変わってしまっているように思います。
 考えるべきは、「人生の主人公は自分」という当たり前なことを念頭に置いた、最期までの生き方、すごし方です。医療とはそれを叶えるための手段にすぎないのです。

  いつしか私は、こうしたことを病院の中で伝えるのでは遅いと思うようになりました。元気なうちから家族で話し合っておいてほしいと考えるようになったのです。

 そんなあるとき、患者の立場から医療をよくしようと活動している方と知り合いました。