さらに、日野富子が自ら政元の屋敷へ参じたのだ。この動きが決定打となり、義材に従い河内で戦っていた守護大名たちさえも、この政変を知ると、続々と陣中から離脱して京都へと戻ってきてしまった。

 こうして幕府の実権を握った細川政元は、畠山政長を討つという名目で、将軍義材のいる河内へ大軍を派遣した。結局、戦いに敗れた政長は自殺し、義材も抗しきれずに降伏したのだった。捕縛された義材は、京都に連れ戻されて幽閉された。

 同年12月、還俗した清晃は11代将軍となった。名前は何度か変えるが、以後は一般的に知られている義澄と記すことにする。将軍就任時、義澄はまだ14歳の少年だった。

 いずれにせよ、幕府の家臣によって将軍の首がすげ替えられる時代になったことは、これまでと異なる大きな変化だったが、それだけでは事は終わらなかった。

「将軍が二人」に

 その後、身の危険を感じた義材が京都を密かに脱し、故・畠山政長が支配していた越中国放生津へ入り、さらに諸国の守護大名に細川政元の征討を呼びかけて、北陸の諸大名を糾合し始めたのである。

 その後は越前国を拠点として勢力を拡大、上洛を目指して近江国坂本まで攻め上っていったのだった。しかし、戦いに敗れて京都の奪還に失敗、有力大名の大内義興を頼って西国の周防へ入った。

 ただ、それからも将軍として振る舞い、諸大名にさまざまな命令や通達を発し始めた。こうして日本に二人の将軍が分立する状況が生まれたのである。

 また、新将軍・義澄を擁立した京都の室町幕府(細川政元政権)がその後、安定したわけではなかった。成長した義澄は、自ら政務に意欲を示し始めたのだ。そして、これをおさえようとする政元との間で相剋を生じ始め、ついに文亀2年(1502)、その摩擦に火がついた。