「村上シェフは立派でした。決して怒ったりせずに、料理人、学生アルバイトに自ら手本を示して、それから命令をする。全部、自分でやって見せて、みんなをまとめていく。リーダーシップとはああいうものだと思いました。(略)もうすぐ2020年東京オリンピックが始まるわけでしょう。選手村食堂も必ずやるわけです。ぼくはそれまで元気で働くつもりです。そうして、皿洗いでもなんでもいいから、もう一度、選手村食堂でアルバイトをしたいと思っているんです。もし、寿司を握ることができたら、それは最高だよ、きっと」(『銀座百点』所収「オリンピックと銀座」2016年4月)

 しかし、それはかなわなかった。油井は18年に亡くなった。

 選手村食堂にはさまざまな大学の学生が出入りしていた。立教大、東洋大、早稲田大、上智大などのホテル研究会や観光研究会は夏休みになると、軽井沢の万平ホテル、箱根の富士屋ホテルでボーイとして研修を受けていたので、選手村食堂の仕事はまったく苦にならなかったようだ。

 油井が所属していた立教大ホテル研究会は、立教大経済学部ホテル講座を聴講していた学生が中心となって結成された。1948年、まだ新制大学発足前である。ホテル講座はそれより2年前の1946年に開設した。「本講座はホテル協会の強い要望によってできたもの」(『立教大学社会学部二十五周年記念誌』1983年)とある。1961年、ホテル講座は「ホテル・観光講座」と改称した。同講座運営委員には井上万寿蔵(日本初の観光学概説書『観光読本』著者)、参与には東京オリンピック準備局長の関晴香がいた。64年東京大会を見据えての運営といっていい。

 その後、ホテル・観光講座は、1966年にホテル・観光コースに昇格する。そして67年には社会学部観光学科としてさらに発展した。四年制大学として日本で最初の観光系学科である。それから30年あまり経った1998年、観光学部となった。同学部のウェブサイトにこう記されている。

「立教大学観光学部と1964年の東京オリンピックは関係があります。東京オリンピック開催を契機として、欧米諸国と同様なホテルおよび観光に関する高等教育・研究機関設置を求める声が国内で強まりました。そこで、戦後間もない1946年から観光教育を始め実績もあった立教大学にその役割が期待される声が高まり、それに応える形として1966年社会学部産業関係学科内に『ホテル・観光コース』が開設されました」