短大観光科は国際観光学部へ発展

 東洋大観光研究会は東洋大のほかに東洋大短期大学部の学生で構成されており、選手村食堂で働いている。東洋大学の観光学教育の歴史は古い。1959年、大学の正課外科目として「ホテル講座」が設置されている。大学新聞にこう報じられている。

「この講座は、我が国が平和国家として繁栄するために、国際親善を計って経営の安定をする必要があり、そのためには観光事業の果す役割が大きい点から将来本学にホテル学科を創設するに先だって開講したものである。(中略)本学のホテル講座は、五年後にオリンピックがあるだけに業界から大いに注目されている」(『東洋大学新聞』1959年9月15日)

 1963年、東洋大ホテル講座は東洋大短期大学部観光科に発展する。同大短期大学部の学生の64年東京大会選手村でのアルバイト研修の様子がこう伝えられている。

「ピチッと制服に身をかためて、かしこまっているウエーターとウエートレス。東洋大学短大観光科二年の荒牧和夫君と団康子さんの実習姿だ。かれらは、オリンピックの期間中、代々木の選手村食堂の給仕と食券係をやる。実習生とか、見習いとはいっても、お客さま第一のホテルでは、一切特別あつかいはしてくれない。制服を着る限り、あらゆる待遇は一般従業員と同じだ。食堂のあいている時間には、かりに友だちから電話がかかってきても、勝手に電話口に出ることはできない。なれないうちは、きゅうくつだし、気も疲れるが、大役をまえに、夏休みも返上して“勉強”だ」(『読売新聞』1964年8月16日)

 東洋大短期大学部観光科(1983年に観光学科に改称)は2000年で募集停止となり、短大そのものがなくなる。観光学科は同年に、東洋大国際地域学部国際観光学科として生まれ変わった。2017年には国際観光学部に昇格している。

選手村で結ばれた早大生

 選手村では食堂担当のほか、選手の案内、通訳などを担当する学生が出入りしていた。

 組織委事務局職員の三枝勝は東京ガスの社員だが、選手村本部に出向していた。三枝は選手村で日本体育大の学生の面倒を見ることがあった。学生たちは選手村に搬入された備品の運搬、各国選手の引率などを担当する。三枝はこうふり返った。

「日体大の学生からこんな話を聞いたことがあります。南米の選手団が時間どおりに集まってくれない。約束の時間をすぎてもカタコトの日本語で『ちょっと待ってください』とのんびり構えている。お国柄だからしょうがないのですが、案内役の日体大生は『ケセラセラ』と話す。当時の流行語で『なるようにしかならない』『先のことはわからない』ということなのでしょう。また、選手村の入村式で日体大の女子学生が台湾選手を前に『台湾(TAIWAN)』のプラカードを掲げたことで、抗議を受けました。国民感情から許せなかったのでしょう。女子学生はプラカードを持たないで引率することになりました」

 台湾は「中華民国(REPUBLIC OF CHINA)」の使用を求めていた。なお、64年大会に中国は参加していない。

 選手村は不夜城だったようだ。前出の油井は勤務シフトについてこう語っている。

「24時間営業の食堂でしたから、8時間ずつ交替制で働いていました。朝早く、もしくは夜遅くまで働く場合は寮で寝るわけです。(略)何人かの相部屋でした」(前出「オリンピックと銀座」)

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 食堂や通訳などのアルバイト学生が選手村に寝泊まりすることもあったが、場所によっては雑魚寝だったという。早稲田大の女子学生が語るこんな記事が残されている。

「彼と肉体的に結ばれたのは、東京オリンピックの選手村でアルバイトをしていたときだ。(略)ある晩、彼は1人で泊まりに来た。“紳士協定を守るならOKよ”と、私たちは2人の境にフトンでバリケードを作って寝た。ところが夜中になると、彼がバリケードの向こうから“ねえ、いいだろう?”とか、“よう、ちょっとだけ”とか求めてくる。私は彼の人間性に魅力を感じたから、交際していたのだ。バージンに執着はなかったから、彼の要求に応えてやってもいいと、自分で納得した」(『週刊プレイボーイ』1967年1月31日号)

 匿名の記事ゆえ、真偽のほどはわからない。

(文/教育ジャーナリスト・小林哲夫)

AERA dot.より転載