これだけ心を打たれた本は、初めてだ――訳者より
ポール・ナースは生物学の世界における巨人である。二〇〇一年にノーベル生理学・医学賞も受賞している。
本書のいたるところで語られているように、彼は「生殖」と細胞レベルの「分裂」を生命の本質と捉えており、そのメカニズムの解明に生涯をかけた。彼がcdc2と名づけた遺伝子の情報(=コード)がタンパク質キナーゼという酵素を作る。この酵素は、サイクリンというタンパク質と一緒になって、細胞周期を進行させるのだ。
こうやって教科書風にまとめてしまうと味気ないが、分裂酵母という、ビールを作ってくれるちっちゃな生き物の細胞周期の仕組みが、人間も含めた「生き物」すべてに共通しているというのは、ほとんどありえないことのように思われる。
逆に、生き物が増える仕組みが、あらゆる生き物で同じだということから、本書の二四五ページでポール・ナースが述べているように、現在の地球上の生き物の誕生は、三五億年の歴史の中でたった一回だけ起きた奇跡であり、すべての生き物は、われわれと親戚関係にあることになる。
これほど壮大な物語はないだろう。
私はよく思うのだが、教科書風のまとめなんぞ、どうでもいい。大切なのは、こういった驚くべき発見をした本人による「生の物語」を読んだり聴いたりすることだ。そこにこそ、科学という営みの本質が隠れている。
この壮大な物語こそが、若きポール少年が葛藤の末に捨てた聖書に代わるものであり、現時点における人類の知の到達点なのだ。ただし、ポール・ナースの立場は神の存在は証明できず、知ることが不可能だという不可知論であり、単純に神を否定しているわけではない(きわめて科学的な態度だと感じる)。
本書を翻訳していて感じたことを書きたいと思う。
驚いたのは、この本がポール・ナースにとって初めての「本」の出版だということ。これだけ科学的な実績があり、二〇〇一年にノーベル賞を受賞しているのだから、何冊も本を書いていても不思議ではないが、ロックフェラー大学学長、王立協会(ロイヤル・ソサエティ)会長といった要職で忙しく、一般向けの本を書く暇がなかったのかもしれない。
では、なぜ今、このような一般向け科学書を彼は書いたのか。
この本の随所で、彼は、現代社会の危機に言及している。新型コロナ禍において、おそらく母国イギリスと超大国アメリカの指導者が、科学を軽んじてしまったこともやんわりと揶揄している(名指しで批判しないところがイギリス紳士らしい)。
ワクチンの問題にしても、副反応があることは事実だが、人口の六割から七割が接種しない限り、新型コロナ禍は収束しない。それも数学的かつ医学的な事実だ。
私は文系だから科学なんぞ知らなくていい。私は経済人だから、私は政治家だから科学はいらない。そう考える人が多ければ、人類は、ウイルスとの戦いで劣勢に立たされてしまう。
新型コロナだけではない。人種やジェンダーで人を差別したり、地球温暖化を否定したり、科学を学ばないことによる弊害はきわめて大きい。
これは私の推論にすぎないが、ポール・ナースは、次の世代のため、人類が悲惨な状態に陥らないために、生涯で一冊の一般向け科学書を書いたのではないか。この本はまさに、細胞周期の司会進行役を務めるタンパク質キナーゼと同様、新たな世代への橋渡しの役割を担っている。
私は数々の科学書を翻訳してきたが、これだけ心を打たれた本は、初めてだ。それほど、ポール・ナースという科学者の家族、友人、先輩、同僚、部下、人類、そして生き物への愛情を感じた。
■新刊書籍のご案内
養老孟司氏(解剖学者、東京大学名誉教授)
「生命とは何か。この疑問はだれでも一度は感じたことがあろう。
本書は現代生物学の知見を十分に踏まえたうえで、その疑問に答えようとする。
現代生物学の入門書、教科書としても使えると思う。」
池谷裕二氏(脳研究者、東京大学教授)
「著名なノーベル賞学者が初めて著した本。
それだけで瞠目すべきだが、初心者から専門家まで読者の間口が広く、期待をはるかに超える充実度だ。誠実にして大胆な生物学譚は、この歴史の中核を担った当事者にしか書けまい。」
更科功氏(生物学者、東京大学総合研究博物館研究事業協力者)
「近代科学四百年の集大成、時代の向こう側まで色褪せない新しい生命論だ。」
ブライアン・コックス(素粒子物理学者 マンチェスター大学教授)
「科学でもっとも重要と思われる問いについて、探究心をもって美しく書かれている。複雑で深淵な問題に、真に深い理解を与えてくれる、稀有な機会に恵まれた。現代生物学の入門書として、これまで読んだ中でベストだ。」
シッダールタ・ムカジー(医師、がん研究者 コロンビア大学准教授)
「この刺激的で生き生きとした本の中で生物学に深く沈潜し、「生命」の5つの本質的な特徴に光をあてている。
すべて驚きと発見にみちていて、いったん読み始めたら止まらない。これから何十年も生物学者にひらめきを与え続けることだろう。」
アリス・ロバーツ(人類学者 バーミンガム大学教授)
「本を読み終えると、生き物の多様性と複雑性と「つながっている」ことに関して、深い驚きの念に打たれる。生物学の最大の難問を扱っていて、私がこれまで読んだ中で、最善の答えが示されている。」
本書は、ノーベル生理学・医学賞を受賞した生物学者ポール・ナースが、「生命とは何か?」について、語りかけるようなやさしい文体で答える一冊。
著者が、生物学について真剣に考え始めたきっかけは一羽の蝶だった。12歳か13歳のある春の日、ひらひらと庭の垣根を飛び越えた黄色い蝶の、複雑で、完璧に作られた姿を見て、著者は思った。
生きているっていったいどういうことだろう?
生命って、なんなのだろう?
著者は旺盛な好奇心から生物の世界にのめり込み、生物学分野の最前線に立った。本書ではその経験をもとにして、「細胞」「遺伝子」「自然淘汰による進化」「化学としての生命」「情報としての生命」の生物学5つの重要な考え方をとりあげて、生命の仕組みについての、はっきりとした見通しを提示する。
…あなたの出発点がどのレベルにあろうと、そう、たとえ科学って苦手だなぁと感じている人も、どうか怖がらないでほしい。この本を読み終えるころには、あなたや私や繊細な黄色い蝶、そしてこの惑星上のすべての生き物が、どのようにつながっているか、より深く理解してもらえるはずだ。私と一緒に、「生命とは何か」という大いなる謎に迫ろうではないか。(本書の「まえがき」より)