イギリスがワクチン開発に成功した理由

――本当ですか?

ナース はい、あなたの反応は理解できますが、日本は社会や地域を尊ぶと同時に、民主主義国家でもあるわけです。私はアメリカ式も中国式も、正反対でありますが、ともに間違っていると考えています。

 われわれヨーロッパの場合は、地域社会を尊ぶ気持ちがありますが、もう完全に不意打ちを食らってしまったとしか言いようがありません。

――ところで、アメリカとイギリスは、西洋諸国の中で、唯一、ワクチンの開発製造に早々と成功したわけですが、その理由はなんだったのでしょう?

ナース まず、イギリスの科学は世界でも最も高い水準にあります。私はオックスフォード在住なのですが、そのオックスフォード大学による開発がきわめて迅速に行われました。そして製造はアストラゼネカ社がイギリスとスウェーデンで行いました。つまり、イギリスには、(訳注:開発力のある)素晴らしい科学と、(訳注:製造を受け持つ)製薬会社のコンビが揃っていたわけです。

 とはいえ、イギリスが世界の中でいちばんワクチン先進国というわけでもありません。今回開発されたワクチンは、最も単純なタイプのワクチンでしたから。
(訳注:新型コロナワクチンには2種類ある。1つは遺伝子ワクチンで、もう1つがウイルスベクター・ワクチンと呼ばれている。遺伝子ワクチンは、遺伝子(mRNA)を脂質の膜で包んで体内に入れるのに対して、ウイルスベクター・ワクチンは、アデノウイルスというウイルスを使って体内に遺伝子の一部を入れる。アストラゼネカ製のワクチンは、後者にあたり、実は、アデノウイルスに対する抗体ができてしまうため、基本的に1回しか使うことができない。ポール・ナースが「単純なタイプのワクチン」と言っているのは、このような意味合いだと思われる。)

 さて、アメリカ製のワクチンは、実はドイツで開発され、アメリカのファイザー社が製造したものです。ワクチン製造には、基礎研究の現場と製薬会社の双方への投資が必要です。

――新型コロナウイルスについて、ご自身はどのような活動をされていますか?

ノーベル賞科学者が明かす…イギリスが早々とワクチンの開発に成功したワケポール・ナース
遺伝学者、細胞生物学者
細胞周期研究での業績が評価され、2001年にノーベル生理学・医学賞を受賞。1949年英国生まれ。1970年バーミンガム大学を卒業後、1973年イースト・アングリア大学で博士課程修了。エジンバラ大学、サセックス大学、王立がん研究所(ICRF)主任研究員、オックスフォード大学教授、王立協会研究教授を経て、1993~96年王立がん研究所所長、2003~2011年米ロックフェラー大学学長、2010~15年王立協会会長、2010年より現職、フランシス・クリック研究所所長。2001年に仏レジオン・ドヌール勲章、2013年にアルベルト・アインシュタイン世界科学賞を受章。世界中の大学から70以上の名誉学位や名誉フェローシップを受賞。本書が初の一般書となる。趣味はグライダーやクラシック飛行機の操縦。

ナース 私が所長を務めるこのフランシス・クリック研究所には1800名の研究員がいます。ヨーロッパでも最大級の生物医学研究所の1つなのです。通常、われわれは、製薬関係の研究というよりも生命科学の研究を行っています。

 ちょうど日本の理化学研究所のような位置づけだとお考えください。さきほども述べましたが、2020年の2月にパンデミックの到来を予期した際、私は研究所の一部をPCR検査専用の施設に改装しました。

 研究所内から100名ほどのボランティアを募りました。研究所を閉鎖して自宅待機する代わりに、研究所を開け、1日に2000件のPCR検査を実施しました。週に1万件です。北部ロンドンの10の病院のPCR検査を一手に引き受けました。北部ロンドンのほとんどの病院が含まれます。

 また、150軒の高齢者施設の入所者と職員のためにPCR検査を実施しました。それが去年の3月から現在まで続いています。

 2021年の1月には、研究所内のさらに別の区域をワクチン接種会場にしました。1日に1000名の患者のワクチン接種を行っています。そして、常時1000名以上の研究員がいるこの研究所では、通常どおり、研究活動も行っています。

 われわれのPCR検査の能力を活かし、この研究所内の人間は、みな、週に2回、PCR検査を受けているので安全です。陽性になったら研究所内には立ち入ることができません。われわれは、研究所の能力の限界まで頑張り、きわめて大きなインパクトを地域社会に与えたと思っています……いや、それは少し誇張しすぎですね。

 でも、かなり重要な役割を担ったと考えています。ですから、私はこの1年、完全に通常通りの研究所長としての活動をしてきました。まったく自宅待機などしなかったのです。

――きわめて大きな貢献ですね。日本でもたしか京大の山中教授らが、同じように大学や研究機関でPCR検査を実施したらどうかと提案されていたように思いますが、日本ではフランシス・クリック研究所のような試みは耳にしたことがないですね。

ナース いえいえ、実はイギリスにおいても、こんなことをしているのは、ここだけなのです。パンデミックの初期に、私は政府に対して、国中の大学と研究所をPCR検査室にすれば、1ヵ月で準備が整うと提言しました。しかし、政府は聞き入れず、民間企業に任せることにし、PCR検査が順調に流れ始めるまでに半年の期間を要しました。この研究所では、わずか2週間でPCRの検査体制が準備できたのに、です。

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