「電報・電話局」の記号は、電話と電報を意味する Telephone&Telegramの頭文字を図案化しています。1985年、中曽根内閣の行政改革の一環で、公営企業の電電公社(日本電信電話公社)が民営化されてNTTになりました。民間企業を特別な記号で表す必要はないということでしょう。ただし、1987年に日本国有鉄道(国鉄)が民営化されてJRとなりましたが、路線を表す地図記号(白黒のシマシマ)は、今も私鉄路線(ゲジゲジ)とは区別されています。

 また、産業の変化も地図記号に反映されます。

 製塩業は、かつて塩田(塩浜)を利用して行われていました。砂浜海岸に設(しつら)えられた広大な塩田に潮の干満を利用して海水を引き入れ、天日で蒸発させて鹹水(塩分濃度の高い水)を得て、これを濾過して釜で煮詰めるのです。これが江戸時代に始まった入浜式塩田です。晴天が続く必要があるため、年間降水量の少ない瀬戸内地方でとくに発達しました。この地域では、日本列島に雨をもたらす季節風(モンスーン)が南北の山地(四国山地・中国山地)に遮られるために年中少雨となります。「忠臣蔵」で知られる浅野内匠頭の赤穂藩(兵庫県南西部)も塩づくりが盛んで、全国的なブランド「赤穂の塩」は藩の専売品でした。

 塩は、日露戦争後の1905年には国の専売品となって財政を支えます。第二次世界大戦後の1948年頃から、もっと効率的な流下式塩田(表面に粘土を張った流下盤や、竹を組んだ枝条架に海水を流して、太陽熱と風で水を蒸発させる)への切り替えが進みます。そして、1972年に天候に左右されない工場内で行うイオン交換膜法(電気を使った海水の透析)が導入され、塩田は不要になったのです。しばらくして、地図記号も不要になりました。塩田の跡地は一部で工業用地に転用され、瀬戸内工業地域の形成に役立ちました。最近はメガソーラーの建設用地にも活用されています。

 桑畑の記号が消えたのは、繊維産業の変化を示しています。昔は日本中の農村で桑の木を見かけました。生糸を作る製糸業、それを支える養蚕業は農家にとって重要な収入源でした。とくに、水田耕作に向かない扇状地の斜面などには桑畑が広がっていました。

 しかし、戦後に生活の欧米化で日本人が絹織物の和服を着る機会が減り、化学繊維の発達や輸入生糸の利用もあって国内の養蚕業は衰退しました。繭を作る蚕の餌となる桑の葉も不要になったのです。扇状地の土地利用は、果樹園などに変化しました。扇状地は粒子の大きい砂礫が堆積した地形ですから、水はけと通気性が良く、傾斜があることで日当たりも良くなるため果実の栽培に向いているのです。扇状地の多い甲府盆地(山梨県)ではぶどうや桃、山形盆地では桜桃(さくらんぼ)、といった特定の果物の栽培に力を入れ、特産品に育てあげました。