「私たち遺族の強い怒りは伝わっていますか」。拓也さんが初めて見せた少し感情的な物言いだった。「道義的にも法律的にも責任を感じていますか」の問いに対しては「2人を亡くならせたことは非常に申し訳なく思っています。法律的なことには、お答えしかねます」と正面から答えなかった

 拓也さんの「私たち遺族の思い、2人の無念と向き合っていないと言われても仕方ないと思いませんか」と問い掛けには少し考え込むような間があり、その後「その意味は分かりませんが、心を痛め重く受け止めているつもりです」。これを聞いた拓也さんの口からは深いため息が漏れた。

怒りの矛先は
被告の傲慢さ

 拓也さんが嘆いたのは当然だろう。飯塚被告の回答は言葉こそ丁寧だが、自身がハンドルを握っていて2人が死亡した道義的責任は感じるが、あくまで原因はプリウスの不具合であり、自分が刑事罰を受ける理由はないと突っぱねたのだ。

 実は初公判があった昨年10月8日、拓也さんは飯塚被告に損害賠償を求める民事訴訟を起こしている。賠償金が目的ではなく「本人から話が聞きたかった」からだ。当たり前だが、自身の過失を認めていないわけだから、飯塚被告側は争う姿勢を示している。

 公判で実現した直接質問の場だったが、拓也さんが聞きたかった言葉は、飯塚被告の口から出ることはなかった。

 この事件を巡っては、飯塚被告が元高級官僚だから逮捕されない、メディアも忖度(そんたく)して肩書呼称をしているなどという誤解が流布され、ネットやSNSでは怒りの投稿が相次ぎ“上級国民”という流行語さえ生まれた。だが、拓也さんの怒りの本質は、そんなところではないと思う。

 なぜ「自分の記憶ではアクセルを踏んだ記憶はないが、ブレーキと踏み間違えたかもしれない」という過失の可能性を認めないのか。そして結果としてではなく、その過失で2人の命を奪ってしまったかもしれないという現実に対し、心からの謝罪ができないのか、という点だろう。

 拓也さんが許せないのは「自分の記憶が絶対的な真実であり、間違いはないのだ」という傲慢(ごうまん)さではないか。飯塚被告の、プリウスの故障で暴走したが、自分もそのせいで汚名を着せられた被害者だといわんばかりの姿勢ではないだろうか。