清水は慶應義塾大学経済学部を卒業後、欧米に留学し、阪急電鉄に入社する。最初の仕事は阪急の百科部家具係だった。配属直後から、清水はこの売り場で最も売れるのは何かと観察していたところ、洋服だんすだとわかる。しかし、サラリーマンにとって洋服だんすは決して安い買い物ではない。そこで製造部に掛け合い、種類を少なくし大量生産することで売値を下げることに取り組む。そうして、それまで60円だった洋服だんすを35円にすると、飛ぶように売れたという。その後、清水はどのポストでも妙手を発揮、それが小林一三(阪急東宝グループ創業者)に認められ、戦後は阪急百貨店の社長に就任した。
さらに57年には東宝の社長にも就任。ここでも独特のアイデアで業績を伸ばす。例えば、百貨店という“建物”経営で培った感覚で、劇場の周りの空間をことごとく金を生む場所に変えていった。劇場の上にネオンをつけて広告塔にし、空いている場所があれば売店や娯楽場を設置していった。いわば“まちづくり”の発想で進めた付帯事業のおかげで、自然と人が集まり、映画の観客動員も増えていったという。
「ダイヤモンド」のバックナンバーをあさると、清水の登場する記事は数多く発見される。「この人の話は、無類におもしろい。ウイスキーを片手に、話し出したらそれからそれへと続く……」と紹介する記事もあった。文才もあり、随筆家として多数の著書を持つ。今回紹介する記事も、具体的なエピソードが豊富で読みどころ満載だ。(敬称略)(ダイヤモンド編集部論説委員 深澤 献)
新入社員は9時~21時
1年通じて休みなし
デパートの昔語りということであるが、私の知るデパートは昭和以後、それも主として阪急デパートに限られていることをまずもって、ご了承願いたい。
私は学校を出ると、しばらく欧米に遊び、1929年、阪急デパートに入社した。
当時の阪急デパートでは、朝の9時から夜の9時まで、12時間営業していた。今のように、朝は10時営業開始、午後は5時、6時に閉店となったのは、ずっと後になってからのことだ。
当時は店によりマチマチであった。中でも阪急デパートは、ご存じのように、ターミナルにあった関係から、デパートの中では最も営業時間が長かった。
今流に言うと、早番、遅番があり、早番をハーチョンといって、朝9時に来て、夕方の5時に帰る。遅番をオーチョンといって、午後2時に来て、夜の9時に帰る。このほかに全勤といって朝の9時から夜の9時までのお勤めがあった。