9月末まで延長となった首都圏の緊急事態宣言。食欲の秋、リモート勤務で自宅飲みしていると酒量も増え、目の前の空き瓶に無常を感じるかもしれません。今回は、毎日を大切に過ごそうというお話です。(解説/僧侶 江田智昭)
人生一生、酒一升はもう空か
新型コロナウイルスの問題が発生して以来、外でお酒を飲む機会が減少した一方で、家にいる時間が増加し、自宅での酒量が非常に増えた方も多いようです。ストレスがたまるこのご時世、お酒でそれらを解消させたい気持ちも少しは理解できます。
家で楽しくお酒を飲んでいて、先ほどまで瓶の中にお酒がたくさん入っていたはずなのに、気づいたらいつの間にかなくなっていた……。このような経験をした方もたくさんいらっしゃるでしょう。
仏教には「不飲酒戒(ふおんじゅかい)」という戒律があります。日本ではこの戒律を厳格に守っている人を現在あまり見かけませんが、この戒律は多くの経の中で散見され、天台宗の開祖である伝教大師最澄はわざわざ遺言の中で「不飲酒戒」について言及しています。これはおそらく、最澄在世当時(平安時代初期)の比叡山でも飲酒が大きな問題になっていたからだと思われます。
浄土宗を開いた法然上人も戒律を厳しく守ったことで有名でした。しかし、『一百四十五箇条問答』の中で、「お酒を飲むのは罪になるのでしょうか?」という問いに対して、「本当は飲んではならないものではあるが、この世のならい」とおっしゃっておられます。「この世のならい」とは、社会の習慣。この言葉がのちに飲酒の容認として勝手に解釈され、後世の仏教界に影響を与えた部分があるようです。
仏教者でない方々からすれば、仏教の戒律などどうでもいいことかもしれません。しかし、過度な飲酒は身体や人生に害を及ぼすことをしっかり覚えておきましょう。また、掲示板の言葉のとおり、「人生」も「酒」も無常であり、あっという間になくなってしまうものです。お釈迦さまのおっしゃるとおり、この世のすべては「諸行無常」なのです。
人生は無常ということに関して、浄土真宗の開祖親鸞聖人のエピソードを一つご紹介します。親鸞は9歳の時、僧侶になるために天台座主である慈鎮和尚[じちんかしょう](慈円)を訪ねました。外はすでに暗くなっていたため、「きょうはもう遅いので、明日の朝になったら僧侶になる得度の式をしましょう」と座主に言われました。このとき、親鸞は歌を詠みました。
明日ありと 思う心の仇桜(あだざくら) 夜半(よわ)に嵐の 吹かぬものかは
これは、「今美しく咲いている桜を、明日も見ることができるだろうと安心していると、夜中に強い風が吹いて散ってしまうかもしれない」ということを意味しています。つまり、親鸞は自分の命を桜の花に例え、「明日自分の命があるかどうかは分からない。だから今すぐに得度の式をさせてほしい」ということを慈円に伝えたのです。この歌に感銘を受けた慈円はその日のうちに得度を行うことを許したと伝えられています。
私たちは、自分の命が明日も続いて当たり前だと思っていますが、桜の花と同様にいつ散るかは分かりません。ボトルの中のお酒のように、気づけばいつの間にかなくなってしまうものです。きょう一日を大切にする意識を持ちながら、後悔のないように行動を起こしていきましょう。