100周年を機にイメージを一新しようとしている相模線。とはいえ読者の多くは相模線と言われてもピンと来ないかもしれない。相模線は率直に言って地味な路線だ。神奈川県中央部に住んでいない限り乗る機会はそうそうないが、地域にとっては通勤・通学・行楽に欠かせない存在である。

 実際、相模線の1日当たりの平均通過人員(コロナ前の2018年度)は、JR東日本の在来線全66路線中18位の2万9643人キロで、利用者は少なくない。ただ1991年に電化されるまではディーゼルカーで運行されており、日中の運行本数も1時間当たり2本程度とローカル線と言ってよい路線だった。

 もっとも現在も日中は1時間3本であるが、横浜線八王子駅までの直通運転が開始されたこともあり、利用者は1987年の平均通過人員9288人キロから3倍に増えている。現在はローカル線より利用者は多いが、首都圏の通勤路線として見れば少ないという位置付けの路線といえるだろう。

砂利輸送の私鉄が
相模線を開通

 では相模線の100年はどのようなものだったのだろうか。実は相模線は開業時点では国鉄(現在のJR)の路線ではなく、相模鉄道という私鉄によって開業された路線であった。相模鉄道といえば今も同じ名前の鉄道会社があるが、相模線を開通させたのはまさしくこの会社である。どういうことか。

 相鉄が2018年に発行した『相鉄グループ100年史』によれば、相模鉄道は中央線と東海道線に挟まれた神奈川県中央部の旅客輸送と、相模川の砂利の採掘と運搬を目的として、茅ケ崎の資産家たちが中心となって1917年に設立された。1921年9月28日に茅ケ崎~寒川間と、貨物線の寒川~川寒川間で営業を開始した。

 砂利を運ぶ鉄道というと意外感があるかもしれないが、砂利輸送をルーツに持つ鉄道はいくつもある。例えば京王電鉄相模原線の前身である京王多摩川原線や西武多摩川線の前身である多摩鉄道、JR南武線の前身である南武鉄道などは、多摩川流域の川砂利を採掘して都心に運ぶ目的で建設された路線である。

 関東大震災後は耐震性の高い鉄筋コンクリート造りの建物が増えたことで、材料となる砂利の需要が高まり生産量は急増。相模鉄道も砂利景気に沸いた。しかし、昭和初期の慢性的な不況により砂利輸送は衰退。また小田原急行鉄道(現在の小田急電鉄)の開業により厚木から直接、新宿に出られるようになったこともあり次第に経営は悪化した。

 横浜線への乗り入れや沿線開発の進展により一時は持ち直すも、昭和初期から続く慢性不況の中、1941年に東京横浜電鉄(現在の東急電鉄)に買収され、同社の傘下に収まった(ちなみに川砂利の採取は堤防の破壊など環境に悪影響を及ぼしたため次第に規制されるようになり、1964年に砂利採取法が強化されて荒川、多摩川、相模川での採掘が全面的に禁止されるに至った)。