伊藤忠商事が1910年に開設したフィリピンのマニラ出張所伊藤忠商事が1910年に開設したフィリピンのマニラ出張所(写真提供:伊藤忠商事)

不振の中国各店にも
多額のボーナスを支給

 後に伊藤忠の戦後2代目の社長になる越後正一は高橋是清が財政政策を始めた頃から敗戦まで、伊藤忠の社員として中国の青島支店に赴任した。その後、満州国総支配人として奉天(現・瀋陽)へ行き、さらにもう一度、青島支店長として中国に戻っている。

 越後は戦争前夜、海外に駐在していた伊藤忠社員の仕事の様子を次のように語っている。

「昭和七年(1932)、中国の青島支店次長への転勤辞命を受け取った。(略)

 この年は『満州国』が誕生し、日満議定書に調印するなど、わが国が一エポックを画した年であった。

 青島へ赴任してみると、内地が対米為替激落から輸出がふるい、好況であったのに引き換え、中国では為替高で、逆に不況のどん底にあった。当時の支店長は苦労のあまり頭が丸はげになった。これは笑えぬ実話で、次長だった私も同様に苦しんだ。これでは参ってしまうだろうと自分でも思ったが、先輩に勧められて始めたゴルフが、この苦境を乗り切る救いになってくれた。(略)

 当社の中国各店は、業績があがらなかったが、日本内地の好況で、伊藤忠は大きなボーナスを出した。忘れもしないが、昭和八年には、私は半年に八千五百円のボーナスをもらった。その次の期は九千五百円だった。当時の青島で、ウォルサムの高級腕時計が二十六円だったから、いかに大きなボーナスか見当もつこうというもの」(『私の履歴書』)

 貿易商社の経営者が采配を振るう際の難しさはここにある。

 支店を置いたすべての国の景気がいいなんてことはあり得ない。国によって景気不景気には濃淡がある。経営者は全体を見て執行していかなくてはならない。市況がいいからといって、ひとつの地域、ひとつのセクションだけに人員や予算を大きく投入すると、そこの経済環境が停滞したとき、大きな損失が生まれてしまう。

 また、越後の話にあるように、損をしている国の支店で働く者にもボーナスを出すことは必要だ。

 金額の多寡は別として、もうかっていない支店にいた越後のモチベーションを支えたのは会社からのボーナスとゴルフだった。もし、ボーナスがなければ越後だってストレスで丸はげ丸裸になっていたかもしれない。

 商社や海外に支店を多く持つ会社の経営者は、各国の従業員、各セクションの従業員の様子や生活を理解しなければならない。遠くの国の現場で働く人間の気持ちになってボーナスの額を決めなければ、働く者の士気を維持することはできない。