【お寺の掲示板96】“先祖”になるまでが人生だ龍岸寺(京都) 投稿者:@kyoto_ryuganji  [2021年8月5日] 

後顧の憂いなく、という意識が「終活」の根底にはありそうです。しかし、死んでしまえばおしまいだではなく、自分自身が“先祖”になることを意識すると、人生がきっと変わってくるはずです。(解説/僧侶 江田智昭)

人は誰しも“先祖”になることができる

 みなさんは自分自身がいずれ“先祖”になることを意識したことがありますか?

 柳田国男が著した『先祖の話』(角川ソフィア文庫)の中で、「自分はあとはご先祖になるだけだ」としきりに語る老人と出会った話が出てきます。このような発言をする老人に対して柳田は、「いまどきちょっと類のない古風な、しかも穏健な心がけである」と評しました。この本が出版されたのが昭和21(1946)年のこと。その当時でも「ご先祖になるまでが人生」だと考えていた人はほぼいなかったということでしょう。

 この『先祖の話』の中での“先祖”とは、特定の家系の始祖であり、一般的に“先祖”とは祖父母より前の3親等以上さかのぼった血族を指すことが多いようです。

 自分に直接の子孫がいなければ、自分自身が“先祖“になることなどないと思うものです。しかし、非常に大きな視点から見れば、どんな人であれ、この地球上にこれから先の未来に生まれてくる人たちにとっての先祖(祖先)となることができるのです。

 たとえ自分が死んだとしても、こうした子孫や人類はこの世界に生き続けます。現在は、自分がこの世界で死んだらすべてが終わると考え、その先の未来の姿を想像しない人が非常に多いように思います。柳田国男が出会った老人のように、「死んだ後も立派な先祖になって子孫を温かく見守る」という目標を掲げている人はおそらくほとんどいないでしょう。

「人生百年時代」という言葉があります。百年と聞くと、非常に長く感じるかもしれませんが、地球の歴史などと比較すれば百年なんてほんの一瞬のことです。百年程度の短いスパンで自分の生を考えるのではなく、自分の死後も連綿と新たな生が続いていくことが頭の中にあれば、自身が抱えている人生観や価値観は間違いなく大きく変化するでしょう。

 仏教の中の浄土教の教えでは、死んだ後は浄土に往生し、浄土から子孫や残された人類を見守ることになります。還相(げんそう)という教えもあります。浄土に往生した者がこの世界に再び戻り、人々を教化することを指します。これらを踏まえると、死後安らかにゆっくり眠っているというばかりにはまいりません。死後にもやるべきことや果たすべき役割が実はたくさんあるのです。

 昨今「終活」という言葉が流行しています。遺品整理や相続の問題などに熱心に取り組んでいる人が多いと聞きます。「終活」をやっている人たちは、死をゴールと想定し、それに向けて準備をしているのかもしれませんが、死は単なる一つの通過点にすぎません。死の先にまだまだ新たな生が続いていくことを仏教は教えてくれるのです。