“踊る宗教家”マニの登場と
ゾロアスター教との関係
ザラスシュトラの没後、およそ千数百年後の3世紀に入って、ゾロアスター教の教典が編纂・整備されました。
経典の名前は『アヴェスター』です。
ザラスシュトラの言葉と彼の死後につけ加えられた部分によって構成され、全部で21巻あったといわれています。現在はその約4分の1が残存しています。
ゾロアスター教は、サーサーン朝4代バハラーム1世の時代(在位273-276)に国教に近いレベルまで引き上げられました。
時のゾロアスター教の大神官カルティール(キルデール)が、バハラーム1世を強引に説得したようです。そこには次のような事情がありました。
名君、シャープール1世(在位241-272)の時代に、バビロニア地方からマニ(216-276または277)という宗教家が登場します。
マニはゾロアスター教の善悪二元論をさらに徹底させ、壮大な二元論の教えを創造しました。
またマニはユニークな宗教家で、自分の教えを舞踏にして伝道しました。
踊る宗教の元祖のような人だったのです。
寛容なシャープール1世の下でマニの教えは、またたくまにペルシャに広まります。
さらに東方では中央アジアを経て中国へ(明教(みんきょう))、西方は北アフリカにまで広まりました。北アフリカが生んだ古代キリスト教の最高の神学者、アウグスティヌス(354-430)も元はマニ教の信者でした。
けれどもマニ教は、シャープール1世の死後、カルティールの攻撃によって衰え、マニ自身も刑死させられます。
そしてゾロアスター教が引き上げられたのです。
新興宗教に対する既成宗教の弾圧は、昔も今も同じように存在していたようです。
サーサーン朝は651年にイスラーム帝国によって滅ぼされ、それ以後ペルシャの地はイスラーム教が支配的となり、今日のイランに至っています。
ゾロアスター教は、今日ではインドや中東に少数の信者を抱える小さな規模の宗教になっていますが、世界の宗教に残した影響には多大なものがあります。
この本では、哲学者、宗教家が熱く生きた3000年を出没年つき系図で紹介しました。
僕は系図が大好きなので、「対立」「友人」などの人間関係マップも盛り込んでみたのでぜひご覧いただけたらと思います。
次回は、その教義について見ていきましょう。
(本原稿は、11万部突破のロングセラー、出口治明著『哲学と宗教全史』からの抜粋です)