たった一つの「思い出」が、人生を漕ぎ出す力をくれる
東京に戻って、父と別れる時、都電に乗った父を見送りました。
白金の日吉坂上という停留所から父を乗せた都電が、目黒に向かってまっすぐに伸びる線路を走ってどんどん小さくなっていきました。
あの頃は高いビルもなかったから、いつまでも都電が見えたんです。
夕焼けに染まる空の下、いつまでそこに立っていたらいいのかわからなくて、ずっと佇んでいました。
さみしいという感情を初めて強く感じた時かもしれません。
同時に、同じ日の昼間に感じた幸福感がくっきりと、忘れられないほどの鮮明さで僕の胸に刻まれたのです。
あの日の記憶だけは今でも昨日のことのように思い出せます。
きっと、誰にでもあるのではないでしょうか。
そっと取り出すたびに、心がほっこりと温かくなるような、誰にも侵されることのない幸せの記憶が。
たった一つで十分に、人生を漕ぎ出す力を注いでくれる記憶がきっとあるはずです。
たまには、ゆっくりと思い起こしてみてはいかがでしょうか。
(本原稿は、中野善壽著 『孤独からはじめよう』から一部抜粋・改変したものです)