本当に「できる人が自分以外にいない」のか?

それからしばらくぼんやり、納豆ご飯を食べながらあの二人の会話を反芻していた。

あの人の上司、よっぽど嫌な人なんだろうな。

そんなことを思った。二人が言うには、その「クソ上司」は仕事ができなくて、効率が悪くて、人手不足なのに人件費を割いてくれない、とても嫌な人のようだった。

逆に、心底嫌そうに語っていた後輩の人は、「できる人が自分以外にいない」と言っていた。ということは、あの人は自分がとても仕事ができると思っているのだろうと思った。すごいな。そんなに自信があるのか。そんなに自分が会社の役に立っているという自信があるなんて、羨ましいな、と思った。私は働いていて、自分が会社の役に立てていると本気で思えたことがこれまでに一度もなかったからだ。

でも、不思議に思った。

ああいう会話、聞いたのって、はじめてじゃないな。

いや、はじめてじゃないどころか、そこらじゅうに溢れている会話だ、と思った。

電車の中で、飲み屋の中で、こういうご飯屋さんの中で。街を歩いていれば、別に探さなくても耳に入ってくる。会社の愚痴。できない上司の愚痴。使えない後輩の愚痴。みんな仕事終わりに愚痴を吐き出しているのだ。クソ上司や言う通りに動かない後輩や働きやすい環境が整っていない会社の上層部がだめだ、こうすればいいのに、という愚痴を。

「自分はめちゃくちゃ仕事ができる」という前提で、それを言う。

ああやって愚痴を言う人たちは、たいていの場合、「自分はできているのに、周りができていないからうまくいかないんだ」という体で話しているように見えた。「俺はできないけどみんなもできないんだよね」という愚痴はあんまり聞いたことがない。

あるいは私が聞いたことのある愚痴がたまたまそういうタイプの愚痴だったというだけかもしれないが、たいていの場合は「本当あいつら効率悪いやり方してるんだよ」とか「もっと現場のことを考えろ」とか「年功序列の老害、仕事できなさすぎ」とか、そういう感じ。仕事ができる人が、仕事ができない人について愚痴を言っている、というイメージだ。

たしかにそうなのかもしれない。

愚痴っている人はみんな、仕事ができるのかもしれない。

でも、だったら、だとしたら。

「俺は仕事ができるのに」と愚痴っている人間はこんなにたくさんいるのに、どうしてこの社会は、いつまでたっても仕事がしやすい環境にならないのだろうか?

「あのクソ上司」と言う人たちが全員、本当に、本人の言う通りに仕事ができる人間ならば、あっという間にこの世界は、働き方革命などという前に、ぐんぐん成長して働きやすくなるのでは?

いや、あるいはそれも、日本社会の悪しき風習のせい、ということになるのだろうか。彼らに言わせれば。

と、そんなことをふと考えてしまったのだ。もぐもぐと、おしんこを食べながら。

愚痴を言っている人はこの世にたくさんいるけれど、その愚痴が全部愚痴ることで解決される問題なのだろうか。

愚痴っていることは、本当にその通りなのだろうか。

どうだろう。わからない。