科学者に求められる「責任あるアドボカシー」

――気候危機は大学存立の最大のリスクなのだから、最優先で取り組む必要があると。

山本 その通りです。見て見ぬふりをしていると、世界からどんどん取り残されてしまうでしょう。というよりも、すでに取り残されつつあります。

 昨年11月に英国・グラスゴーで開催されたCOP26(国連気候変動枠組条約第26回締約国会議)において、天文学者たちは「Astronomers for Planet Earth」という声明を出しました。これは、現実的に移住可能な惑星は見つかっておらず、人類存続のためには地球の気候変動に対して緊急に取り組まなければならないというメッセージですが、世界中の天文学者2800人の署名が集まりました。しかし、その内訳を見ると日本からの署名は50人足らずです。「科学者たちによる非常事態宣言(World Scientists’ Warning of a Climate Emergency)」でも同様で、世界中から1万1000人もの署名が集まりましたが、そのうち日本人は100人未満です。

――このような温度差は、なぜ生まれるのでしょう。

山本 一つは、「科学者は政治的な発言をすべきでない」という空気があることです。

――気候変動への危機感を表明することは、政治ではなく科学だと思いますが。

山本 その通りです。しかし、気候変動問題は科学であると同時に、政治との距離がとても近いのです。「明らかに緊急を要する問題」だからです。つまり、「今すぐ」かつ「徹底的に」策を講じないと、確実に手遅れになる。すると、科学に立脚して発言すればするほど、必然的に既存の仕組みに対して強く異を唱えることになり、政治的な意味を帯びてしまう。「科学者は価値中立であるべし」と考える人ほど、発言や行動に二の足を踏んでしまうわけです。

 当然ながら、研究やサイエンスは価値中立であるべきです。しかし「科学者」は、研究の結果に対して社会的責任を負う。「価値中立」を盾にして傍観者でいることは許されません。いつまでも「象牙の塔に閉じこもった純粋科学者」のままではいられないのです。私は「責任あるアドボカシー」を実践しなくてはいけないと考えています。

――具体的にどういった行動が、責任あるアドボカシーになるのでしょうか。

山本 「社会で、ある立場を取って、その推進のために働くこと」と定義できると思います。政策にダイレクトに影響を及ぼす行動、ロビーイングもそうですし、非暴力的な市民の不服従運動もそうです。

 19年4月、効果的な温暖化対策を求めて、「Extinction Rebellion(絶滅への反乱)」と呼ばれる大規模な抗議運動がロンドンで起きました。市内の主要道路を抗議者が占拠し、1週間以上も交通がまひし、逮捕者は1000人を超えました。この半分を科学者が占めていたそうです。このような抗議運動は、世界中にさまざまなバリエーションで行われており、社会的にも許容されています。しかし日本社会の許容度はまだまだ低い。

 もちろん「象牙の塔の純粋科学者」を否定したからといって、研究をおろそかにしろと言いたいわけではありません。日本学術会議は13年に「科学者の行動規範」を改訂し、科学者の責務の一つとして「社会の中の科学者」という項目を追加しました。ここには「科学者は、科学の自律性が社会からの信頼と負託の上に成り立つことを自覚し、科学・技術と社会・自然環境の関係を広い視野から理解し、適切に行動する」と書かれています。社会の中の科学者、これが「責任あるアドボカシー」です。大学が発する気候非常事態宣言は「科学者よ、象牙の塔から出よう」という宣言なのです。