あとを継いで天文方となったのは至時の子の景保で、忠敬は40歳も年下の景保に師事しながら、測量の仕事を続けます。

 うんと年下の上司に仕えなくてはならないというのは、年上を敬えといった道徳観の強かった江戸時代、意外と難しいことだったかもしれません。身分が上であるから頭は下げても、もしも年齢にこだわる価値観が強ければ、「この若造」と、どこかで思ってしまうでしょう。

 年下の者と良い関係を保つことができるというのは、人を年齢で判断しない、ということでもあります。

 1818年4月、日本地図を作製し、幼いころからの望みを達成した忠敬は、74歳でこの世を去ります。その際、「忠敬ののぞみどおり、自分よりも早くなくなった恩師、高橋至時の墓のそばにほうむられました」(大石学監修『伊能忠敬――正確な日本地図をつくった測量家』(文・西本鶏介、絵・青山邦彦))。

 そして高橋至時の子・景保が忠敬のあとを継いで地図作りの指揮を執り、3年後の1821年、ついに「大日本沿海輿地全図」が完成。これを見たオランダ商館付医師のシーボルトは、「日本にもこんな正確な地図があったのか」(大石氏監修前掲書)と驚いたと言います。