必死に努力しても報われなかった理由
――ぐんぐん引き込まれるエピソードの中で、カジサックさんの壮絶な挫折経験についても触れられていました。そこで、「努力が結果に繋がらなくて悔しい」と感じた経験について、お聞きしてもよろしいでしょうか。芸能界とは異なる、一般企業で働くビジネスパーソンでも、「必死に努力してるつもりなのに、頑張りが評価につながらない」といった空回り感で葛藤している人も多いと思うんです。そんな悩みを解決する方法、辛い時期を乗り越える方法について、カジサックさんのご意見を聞かせていただけたらな、と思って。
カジサック:いま、いちばんパッと浮かんだのは、「ひな壇」での失敗ですかね。
そうだな、ボクがずっとレギュラー出演していた「はねるのトびら」が終わった直後くらいのことでしょうか。「はねトび」は深夜番組時代から11年間続いていて、当初、ヒヨッコ芸人だったボクは、「はねトび」にすべてをかける! くらいのつもりで取り組んでいました。
だから、それ以外のことにあまり目を向ける余裕がなかったんですよね。番組が終わって気がついたら、バラエティの座組が大きく変わっていたんです。MCがいて、たくさんの人がずらりと並ぶ、ひな壇番組ばかりが作られるようになっていた。
――たしかにその頃、コントや漫才を観るのが中心の「お笑い番組」ブームが、ちょっとだけ落ちついた雰囲気がありましたよね。
カジサック:そうそう。お笑い番組がコンビではなく、単独で呼ばれるようになったんですよね。ゲストとしてしっかりトークするのではなく、MCに振られて発言する。誰かの話に乗っかっていって、ときには話を遮って、爪痕を残さなきゃいけない。
それが、ボクには本当に向いてなかったんです。メンタルも結構弱いし、気ぃ遣いなところがあるので、「せっかく誰かがおもしろい話をしてはるなら、じっくり聞いてあげよか」という気持ちになってしまう。人を押しのけて前に出る、というのがどうしてもできなかったんですよね。
当時は、「ひな壇で活躍できないやつは生き残れない」みたいな空気もあったので、「キングコングの名前のためになんとかテレビに出なきゃ」と焦っていたんですけど、せっかくオファーをいただいてもずっと結果が出せなかった。
――お笑いの世界だけでなく、一般のビジネスパーソンの世界でも、そういうこと、ある気がします。ガンガン前に出てアピールしないと結果は出ないとわかっているのに、他の人を優先させてしまい、結局目立たない、評価されづらい仕事ばかりやってしまう……というような。
カジサック:ああ、そこは通じる部分はあるのかもしれないですね。ボクもそんなこんなで、ひな壇でうまく自分を出せず、手応えもなく、爪痕どころか引っ掻き傷すら残せない……という日々が続いていました。
一方で、相方の西野は本当にスゴいヤツで、「よっしゃ! こんなチャンスのときに、前に出ないでどないすんねん!」と、臆さず結果を出せていた。さらにその後も、絵本作家としての才能を開花させ、テレビじゃない場所でも活躍している。一方で、ひな壇番組への出演依頼もどんどん減っていく自分。やりたいこともわからないし、何が向いているのかもわからない。「何やってんねやろ、自分」と、あのときは結構、きつかったですね。
――書籍にも西野さんとのエピソードがたくさん書かれていましたが、いまおっしゃったような、コンビとしての過渡期にも、漫才は続けていたんですよね。
カジサック:そうですね。脚本、監督、絵コンテをこなした映画『えんとつ街のプペル』が大ヒットし、西野が大忙しだった時期も、ボクらは劇場の舞台で漫才を続けていました。月に20本~30本も舞台に立ち続けて。いま考えると、西野は他にもやりたいことがあったはずなのに、ボクのためにキングコングとして漫才を続けてくれてたんですよね。ボクの生活のために。吉本からちゃんとお給料が出て、嫁と子どもたちが不自由なくご飯を食べられていたのは、西野のおかげだったんです。あの当時は、申し訳なさと情けなさとさびしさでいっぱいでしたね。