人生の悩みの多くは、物事にとらわれることから生じます。執着は生きる原動力でもあるので、それを完全に捨て去ることはできませんが、仏教の説く「無我」を理解できれば、より生きやすくなるはずです。(解説/僧侶 江田智昭)
「無我」の教えとは「自己冷却装置」
5年目となる「輝け!お寺の掲示板大賞2022」(主催:公益財団法人仏教伝道協会)。10月10日の締め切りまで、今年もたくさんのご応募をお待ちしております。
連載101回目となる今年最初の作品は、北野武さんの言葉です。お笑いの世界で頂点を極めながら、映画監督としても世界的な名声を得るなど、偉大な功績を残した人間だからこそ、この言葉にも重みがあります。
この言葉のように、シンプルに考え、生きることができれば人生は楽だと思います。ところが、なかなかそうはいきません。私たちは容姿や財産、家柄や肩書などさまざまなものにとらわれてしまいます。この「執着」が、人生の中でさまざまな問題を引き起こします。
『大無量寿経』には、「田あれば田に憂へ、宅あれば宅に憂ふ。牛馬六畜・奴婢・銭財・衣食・什物、またともにこれを憂ふ」とあります。人間はいつの時代も、さまざまなものを「わがもの」として執着し、そこから憂いが発生しているのです。
仏教では、「この世界の中で常にあって変化せず、主体的に存在するもの(=我)」は存在しないと考えます。この考え方を「無我」と呼びます。とはいえ、私たちは「自分自身や自分を取り巻くものが主体的に存在している」といつも勘違いし、それらに勝手に執着してしまいます。
中国唐代の高僧である趙州禅師に、「執着」にまつわる有名なエピソードがあります。「私は長い修行を経て、何もかも捨て去って、もはや一物も持っていません(つまり、執着を離れたということ)。どうしたらいいでしょうか?」と問う僧侶に対して、趙州禅師は「放下著(ほうげじゃく)」(投げ捨ててしまえ)と答えました。それに対して、「すでに持っていないので、もう捨てるものがないのですが?」とさらにその僧侶が質問すると、「それなら、かついでいけ」とおっしゃったそうです。
少しわかりにくいかもしれませんが、これはつまり、「すべて(の執着)を捨てた」と公言する僧侶の“自負心”を見抜いた趙州禅師が、「執着を捨てたということに対する執着心も捨ててしまいなさい」と注意を与えたのです。いかに人間が執着から離れられないかをよく表したエピソードだといえます。
どんなに自分では捨てたと思っていても、執着の心が常につきまといます。執着は苦しみの原因になる一方、私たちの生きる原動力にもなっています。ですから、それらすべてを捨て去ることは実際には不可能であり、人間は「我」や「わがもの」に対する執着に死ぬまで悩まされ続けることになります。
では、私たちにとって、「無我」についての教えが単なる机上の論であり、われわれの人生とは無関係なものであるかというと、そうではありません。
あるインタビューの中で、アナウンサーの古舘伊知郎さんは、仏教の「無我」の教えを「自己冷却装置」と表現していました。確かに「無我」の教えは、自我の膨張に対して強烈な冷や水を浴びせかけます。
「我やわがものなどはそもそもこの世界には存在しない。それなのに、なぜ私はさまざまなものをそのように捉えて執着し、こんなに悩み苦しんでいるのだろうか……」と冷静に考えてみると、目の前の世界がそれまでとは違って見えるのではないでしょうか?
「無我」の教えは、自身の人生やこの世界に対して確実に俯瞰的な視点を与えてくれます。私たちはみな裸で生まれ、たまたまご縁によってこの世界に生かされているにすぎません。「自分」という存在はそもそも虚妄であり、「我」や「わがもの」はこの世界には本来存在しない。つまり、理想の自分・財産・世間的な名声などは、しょせん幻にすぎないのです。このことを頭の中でしっかり認識していれば、「生まれて生きて死ぬだけで十分」と少しは思うことができるのではないでしょうか?