サブプライムローン問題に端を発した金融不安が老舗証券会社のベア・スターンズを実質破綻させ、米金融界の損失が合計1兆ドルにまで及ぶと推測されるに至って、いよいよ米国政府に金融機関への公的資金注入圧力がかかり出した。
これまで米国金融当局は資本増強の自助努力を強く促し、実際、巨額の損失をきたした金融機関は、中国や中東の政府系ファンドにまで出資を仰いだ。だが、自助努力だけでは不十分だ、金融不安が金融危機に深化しないうちに公的資金を注入せよ、というわけである。とりわけ日本の識者は、「わが国の苦闘の過去を教訓とせよ」と叫ぶ。
日本の苦闘の過去とは、いうまでもなくバブル崩壊後の“失われた10年”を指す。株式、不動産などの資産価格が下落し、銀行の資本不足による貸し渋り、貸し剥がしを誘発して実体経済が長期にわたって悪化したわけだが、すでに1992年頃から公的資金投入(当時は金融機関の資本に注入するという考え方に統一されていたわけではなかった)は議論され始めていた。
だが、広く国民(産業界の大部分も)は強い抵抗を示し、したがって政治家も官僚もはなからその気がなかった。己の利益を拡大するためにやりたい放題の乱脈融資を行ってきた銀行だけをなぜ税金で助けなければならないのか、という感情的反発には凄まじいものがあったのである。ようやく金融機関への公的資本の逐次注入が始まったのは、金融危機が発火してしまいいくつもの金融機関が破綻した後の1998年であった。
洋の東西を問わず、金融資本に対する人びとの目は冷たい。現在の米国社会も、略奪的取引とまで形容されたサブプライムローンの高利貸したちへの反感に覆われているだろう。その証券化商品を買い込んだ金融機関に同情するはずがない。
下手に手を出せば政治問題化する。大統領選挙のさなかにとてもそんな冒険には出られない――米国政府は、そうした政治的困難のなかにある。
だが、それを乗り越えて、公的資金を注入しなければ手遅れになる、と日本の識者は主張しているのである(皮肉を言えば、日本の金融危機に際し、早く公的資金を注入せよと毎日のように大蔵省に圧力をかけてきたのは、米国政府であった)。
だが、私は、公的資金注入は、現時点では反対である。日本の金融危機に学ぶべき第1の教訓は公的資金注入ではない、と考えている。
現在、住宅バブルがはじけ、証券化商品の価格が下落し続けている。投機的行為が集中したのだから、その反動による急落はやむを得ない。それによって生じる損失は、誰かが負担しなければならない。