ところが10年後の昭和45年になると、GNPは実質で2.8倍(名目は4.5倍)となり、加速度を伴って、この傾向は48年のオイル・ショックで冷水を浴びせられるまで続いたのである。田中角栄氏が『日本列島改造論』を発表し、今後15年でGNPを4倍にすると放言しても、その可能性については最早多くの国民がこれを疑わなくなっていた。高度経済成長の黄金時代ともいうべき47年ごろ、わが国が抱える外貨は169億ドル以上にはらみ、アメリカの出方や圧力に悩まなければならないほどであった。

 自動車の生産台数(45年で約500万台、その2、3年後に約700万台)にしろ輸出にしろ、経済繁栄国の実力を内外にみせつけたものである。現在ですら、不況だとか経済危機だとかいわれてはいるものの、輸出は好調であり、外貨準備高も依然として134億ドルを維持しているのだ。

昭和35年ごろに、今日の姿を長期予想する経済学者がいたとしたらまるで相手にされず、一笑に付されたことだろう。ことほどさように日本は激変したのである。当時のわが国は、いわゆる構造的不均衡によって失業と入超のジレンマに苦しめられていた。経済成長を阻む壁は外貨準備高であり、高すぎることのないように成長率は国際収支によってチェックされた。外貨準備高は20億ドル内外であり、関係省庁は、1億~2億ドルの増減にも一喜一憂していたのである。――当時の経済情勢を実に簡単に素描してみたが、この程度の記憶すらいまでは忘れかけているのではないか。

 この高度経済成長の結果、日本は戦争も革命も及ばないほどの社会変動を経験した。この過程から吹き出され山積みされた巨大な諸問題の前に立ちすくみ、暗中模索するしかないと半ば諦めかけているというのが現状であろう。過疎・過密の問題、大学問題、健保、食管、国鉄問題……先述した身近な問題点に加えて、めぐりめぐって高度経済成長がもたらした社会変動の所産であるこれらの諸問題は、相変わらず未処理部分がほとんどである。その処理に関して、政府・自民党も野党も有効的な解決策を見出しえていない。この時期、高度経済成長は破天荒ともいうべき事件の種子をも播まいたのである。

本記事は『【新装版】危機の構造 日本社会崩壊のモデル』より本文の一部を抜粋、再編集して掲載しています。