1976年の初版発刊以来、日本社会学の教科書として多くの読者に愛されていた小室直樹氏による危機の構造 日本社会崩壊のモデルが2022年に新装版として復刊された。社会学者・宮台真司氏「先進国唯一の経済停滞や、コロナ禍の無策や、統一教会と政治の癒着など、数多の惨状を目撃した我々は、今こそ本書を読むべきだ。半世紀前に「理由」が書かれているからだ。」と絶賛されている。40年以上前に世に送り出された書籍にもかかわらず、今でも色褪せることのない1冊は、現代にも通じる日本社会の問題を指摘しており、まさに予言の書となっている。【新装版】危機の構造 日本社会崩壊のモデル』では、社会学者・橋爪大三郎氏による解説に加え、1982年に発刊された【増補版】に掲載された「私の新戦争論」も収録されている。本記事は『【新装版】危機の構造 日本社会崩壊のモデル』より本文の一部を抜粋、一部編集をして掲載しています。なお掲載している内容は1976年に書かれたものです。

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激動時代の中での「想像力」

 人間の最大の弱点の1つに、イマジネーションの不足がある。どんな現象でも、日常化してしまえば「あたりまえ」になってしまって、驚く能力を喪失する。どんな大事件でも、起きてしまえば、なんだか必然性があったような気になる。これが、ものごとの本質を見失わせる最大の原因の1つである。われわれは、過去十数年間の変化がいかにすさまじいものか、まず驚くことから学ばなければならない。

 しかし、急激な変化の渦中にいる者には実感することが困難かもしれない。どんな急速な変化も、生活のテンポの中では徐々にしか起こらないから、これを体得するのは困難であろう。イマジネーションが必要となる。終戦直後(昭和30年でも、大体同じである)の人をタイム・マシンで現在(1976年当時)につれてきたら、あまりの変化に驚倒し、これが31年後の日本であるとはどうしても信じられないであろう。しかも激変の大部分は、最近一五年間に生起したことなのだ。過去2000年間の変化よりこの15年間の変化のほうがはるかに大きかったといえよう。田子の浦は、万葉時代から昭和30年代の半ばまで永遠の美を誇るかのごとくみえたが、ここ数年でみるも無残な変貌を遂げた。

 終戦直後の日本には、まともな自動車が数台しかなかったそうである。代議士はいうまでもなく、大臣でもなかなか乗れなかったそうである。河野一郎が自由党で頭角をあらわした1つの理由は、自動車を所有し、自由党幹部間の連絡の便宜を提供したからであると聞く。

 当時の日本人に、昭和50年ごろの日本最大の社会問題は、自動車が多すぎることだといったら変わっていると思われたろう。46年ごろには、米が余って置き場所に困るようになるといったら、空腹で目もまわりそうな人びとに、馬鹿も休み休みいえと反感を買っていただろう。

 昭和初年には、東京の街中でも自動車が通ると子どもが飛び出してきて「万歳」と叫んだそうである。田舎には一生汽車を見たことがない人もいたという。テレビはまだ試作段階で日本には数台しかなく、アメリカでも映像は明瞭でなく、ゴリラと人間の格闘の類のものしか放送できなかったという。恋愛物語を放映しなかったのは、ヒロインが美人なのかどうか判然とせず、視聴者泣かせになるからだった

 ラジオさえも少なく、映画館も毎日上映する館は常設館と呼ばれ、むしろ例外的であったそうだ。肉や卵や牛乳は大変なごちそうでなかなか庶民の口には入らなかったとか。これに比べれば、現在などは、毎日毎日がお祭のようなものだろう。しかし、昭和初年といえばあまり昔のことでイマジネーションにも限界があろう。

 だが、だれしも昭和30年代の初期でも、これと大差はなかったことを思い出すだろう。35年の安保騒動後、池田首相は、10年後に国民所得を倍増するといったら、批判者は、とんでもない大ボラだといった。10年後には、自動車年産を100万台にするという目標が発表されたら、こんな無責任な放言はやめて、もっと現実的な目標を立てろと非難された(当時の自動車生産は約20万台、性能は悪く、アメリカ車と競争することなど問題外であった)。

本記事は『【新装版】危機の構造 日本社会崩壊のモデル』より本文の一部を抜粋、再編集して掲載しています。