「人の目を気にせず自分らしく生きたいのに、『認められたい』という気持ちを捨てられない」と葛藤し続け、「承認欲求」から解放される方法を研究し続けてきた──そう語るのは、エッセイ『私の居場所が見つからない。』の著者・川代紗生氏だ。8年かけて綴ってきた彼女のブログは、同じ生きづらさを抱える読者から大きな反響を呼び、10万PV超えのバズを連発。その葛藤の記録をまとめた本書は、「一番言ってほしかったことがたくさん書かれていた」「赤裸々な感情に揺さぶられ、思わず泣いてしまった」など、共感の声が寄せられている。
そんな「生きづらさをエネルギーに変えるためのヒント」が詰まった1冊。今回は、疲れた心に寄り添う本書の発売を記念し、未収録エッセイの一部を抜粋・編集して紹介する。
「泣きたくないときに涙が出る」ポキッと心が折れた瞬間
ポジティブの仮面をかぶり、明るく、悩みがあってもへこたれない人間のふりをして生活し続けることに、ふと疲れてしまった瞬間があった。コロナ禍に入ってしばらくした頃のことだ。それほど疲れているつもりはなかったのにある日ふと突然、膝の関節をヒョイッと抜かれてしまったみたいに、どっと心に疲労がやってきた。一瞬、本当に何かが故障してしまったんじゃないかと思った。泣きたくないときに涙が出て、失礼な物言いをされてもうまく怒ることができなかった。そのわりには、人前で「絶対に明るくしなきゃいけない」タイミングのときには、「正しく」笑い、はきはきと話し、いかにも「私は人生が楽しくてたまらないんです」といった人間のふりをすることができた。
なんだこれは、と私は思った。いままでも疲弊することはもちろんあった。水が枯れたようにくたくたになることだって何回もあった。けれど今回のそれは、初めて経験するタイプの、いわば「心のねじれ」みたいな感覚だった。
私は昔から、ポジティブこそ正義だと思っていた。
いや、というよりも、「ポジティブであること=幸せ」という暗黙のルールにある程度従って生きようとしていた、というほうが、ニュアンスとしては近いだろうか。
何かしんどいことがあっても「あの経験があったから」、理不尽な目にあっても「これがいつか自分の糧になる」、こいつのこういうところ本当に嫌いだなと思うことがあっても「いやいや、それは見方次第だ。私がひねくれているから嫌なように見えるだけ」。
いつもどんなときも、思考がネガティブな方向に行ってしまいそうなときには、ブレーキをかけるようにしていた。それが正しい行いであると思っていた。
たとえば、どうしようもなく落ち込んで足元が暗くなり、縋り付くように本屋に行くことがあった。何かヒントになる言葉があればと思った。ページをめくってみると、大半のコンテンツにこう書いてある。
「見方を変えてみましょう」
「思考の転換が大事です」
「悪いところばかりを見るから嫌な気持ちになってしまうのです。自分の心が『気持ちいい』と思えるものにたくさん触れましょう」
そして私はいつも、そういったフレーズを見るたびにこう思う。
そうだよなぁ。
うん、そうだ。そうだよなぁ、と思うのだ。そのとおりなのだ。だからこそ私も実践しようとつとめてきたことばかりが、そこには書かれていた。
誰もがそうして生きている。大人って、大変だよなあ。
でもそうやって自分の心に毎回毎回、「気持ち次第だよ」と言い聞かせ続けることに、私はいい加減疲れているのかもしれなかった。
「心のねじれ」で立ち上がり方がわからなくなってしまった。どうやって怒ってたっけ? どうやって泣いてたっけ? どうやって息してたっけ?
さて、困った。どうしたらいいのだろう。
「心のねじれ」を因数分解する
もちろん病院にも行った。薬ももらった。休日には寝まくって体力回復につとめた。けれど、これは必ずしも「時間が解決してくれる」「休んでリフレッシュすればOK」というタイプのねじれではないことは、私にはなんとなくわかっていた。根本的な解決が必要なのだ。
私は個人的な調査を開始した。同じような経験をしたことがないか周りに聞いてみたり、専門的な本を読んだりした。ヒントになる言葉を探してはメモをして、心の中をなるべく「見える化」できるようにつとめた。「心のねじれ」についてできるかぎり因数分解しようと試みた。
そもそもこれの正体は何なのか。なぜ、どのようなタイミングで誕生してしまったのか。
ポジティブの濁流で溺れる
私はまずそれを、素直に言葉にしてみることにした。そもそも、「ポジティブ」の何がそれほど苦痛だったのだろう?
少なくとも、コロナ禍での生活の変化は大きかっただろうと思う。
気兼ねなく旅行や遊びに出かけることもできず、家に閉じこもってじっとしている期間は、ついネット上に居場所を求めてしまい、そのおかげで、不特定多数の声が毎日大量に流れ込んでくる生活が当たり前になってしまっていた。30代で必要なこととか幸せになれる人の条件とか、そういう前向きな言葉たちが次々に耳に入ってくる。たしかに、それに救われることがあるのも、事実だった。
ただ、なんだろう、そういう言葉たちが暴力的に見えてしまうことが、ときどきあった。顎をぐいっと掴まれて強制的に上を向かされているような強引さに、ある種の恐怖心を抱いてしまうのだ。ポジティブであることこそが正義で、人間が本来進むべき道であるとみんなが信じていて、私以外の誰一人、そういう風潮にたいして違和感を抱いていないように──見えてしまう。
それが、どうにもこうにも居心地が悪かった。「なんか違う」のだ。別に社会を変えたいとかそこまで大袈裟なことを考えているわけではないのだが、ただ、なんとなく、無性に……。
無性に、疲れた。
ポジティブの濁流に飲み込まれて、吐きそうになってしまう。
みんな頑張ってるのにと、考えれば考えるほど、情けなくなった。
ただ、なんだか、自分の「嫌だ」「苦しい」「泣きたい」という気持ちを強引にねじ曲げるようなうねりに溺れて、うまく呼吸ができないでいる。私の中の「嫌だ」という気持ちが、悲鳴を上げている。
そうだ。私は嫌なんだ。きついんだ。辛いことがたくさんあるんだ。傷つくことがたくさんあるんだ。他の人と比べたらたいしたことじゃないかもしれない。世界中にいる、もっと過酷な環境で闘っている人たちのことを考えたら、こんなことでしんどいとか言っている私はどうしようもなくダメなやつなんだろうと思う。
でも、違うんだよ。そういうんじゃないんだよ。
「私は」しんどいっていう話をしてるんだよ。
そう言いたくなるときがある。叫び出したくなるときがある。心のずうっと奥の方にいる小さな子どもみたいな私が体育座りをしていて、そして「私は悲しい」と訴えてくる。
その私の存在を、私はどうしても無視することができない。
無視された感情はいったいどこへ行ってしまうのか?
社会人になってそれなりに時間も経って、両親は歳をとって、高校の同級生が結婚して出産して、親になって。そういう場面を見ていると「私もちゃんとしなきゃ」と思う。社会が動くのと同時に、次々に新しい社会人たちがやってくるのと同時に、私も成長しなくちゃと思う。「成長」することとは、自分の感情をコントロールして、イライラしたり怒ったり悲しんだりしない自分になることだと思っていた。いつだって冷静にいられる、嫌なことがあっても耐えられる自分でいることだと思っていた。それが大人になるということなんだ。
でも、そんなの無理だよ。「嫌だ」と思うことを、なんで無視しなきゃいけないの。
「これは嫌だ」とか「気持ち悪い」とか思った自分を無視するのだとしたら、その無視された自分は、いったいどこにいっちゃうんだよ。どこにいけばいい。存在をなかったことにされて、消えていくのか。どこか遠く、誰にも見てもらえないところでまた、じっと体育座りし続けるしか、方法はないのか。
いや、そんなの、それこそ悲しいじゃないかと私は思った。
だってそれって結局、自分自身じゃなくて、周りに自分の人生の手綱を握らせているのと同じじゃないか。
ポジティブシンキングはたしかに有効だ。けれど、使い所を間違えると「ポジティブであらねばならぬ」というプレッシャーが暴発して、心を押しつぶしてしまうこともあるんじゃないだろうか。
「嫌だ」
「苦しい」
「悲しい」
だったら、そういう押し殺してきた気持ちたちと、どうしたら共存できるのだろう。仮面を使い分ければいい? うまく取り外しができるタイミングをつくる? いや、私にそんな器用な真似ができるとは到底思えない。
さて、私はどうするべきなんだ?