「どうしようもない疲れ」の正体

 この「ポジティブの暴力にどう抗うか」という問いについて考えるようになって、もう1年以上になる。私は自分を実験台にして対抗策を探し続けていた。情報を集めたりカウンセリングを受けたりルーティンを変えてみたり、SNSを見ないようにしてみたりと、いろいろな方法を試した。でも結局私の心の中の「体育座りしている子ども」はいなくならなかったし、むしろそうやって抗おうとすればするほど、その子の主張は大きく、強くなっていくように見えた。

 ようやくヒントのようなものに出会えたのは、『感情とは何か』(筑摩書房)というどストレートなタイトルの本を読んだからだった。「感情」というキーワードで検索しまくり、この「どうしようもない疲れ」の正体について教えてくれるような情報を探し求めていたのだ。それは哲学者の清水真木氏が書いた本で、まさに「感情」と呼ばれているものはなんぞや? という問いを、哲学史や科学などさまざまな切り口から考察した本だった。

 驚いたのは、彼が「理性と感情の対立」「理性で感情をコントロールする」という捉え方について疑問を呈しており、むしろ「感情は理性の別名である」「感情は外部からの一切のコントロールを受け付けない」と言っていることだった。

 たとえば、「アンガー・マネジメント」など、「感情のコントロール」に興味を持つ人は増えている。元々はアメリカ発祥の考え方だが、日本でもここ数年、仕事術やライフハックの一環として知られるようになってきた。「不機嫌を撒き散らさないこと」「感情的にならず、冷静なコミュニケーションが取れること」は、仕事人として優秀であることの必須条件になったと言ってもいいだろう。

 けれど、この本には、「アンガー・マネジメント」をはじめとした感情管理術について、こんなふうに書かれていた。

「本当の意味における怒りのコントロールが可能であるなら、それは、怒りを変化させ、別の感情を生み出す操作でなければならないでしょう。(中略)これは、感情のコントロールではなく、気分をコントロールし、感情と行動の結びつきを遮断する操作にすぎません。」(『感情とは何か』42ページより)

「感情」という言葉はひどく曖昧で、何を「感情」と定義するかによっても話は変わってくるのだけれど、少なくとも「アンガー・マネジメント」のようなコントロール法は、「怒り」として生まれてしまった感情そのものをなくすことはできない。コントロール可能なのは、あくまでも「怒り」という名の「感情」によって生じる「行動」を別の形に変化させることだけ、ということだった。

またもこの怒りは「感情」として認識してもらえなかった

 これを読んだとき、ああそうか、と私は思った。あの「体育座りの子ども」は、私が「ポジティブの仮面」をかぶることで押し殺してきた感情たちの総体なのだ。「怒り」が湧いてきたとき、さっと仮面をつけて怒っていないふりをする。悲しくても寂しくても、がっかりしても、仮面をつける。大丈夫大丈夫、私は怒ってなんかいないと言い聞かせる。別にそれが本当の解決策になるだなんて、もちろん思っちゃいなかった。でもしょうがないじゃないか、だってそうするしかないんだから。怒りを誰かにぶつけても何も解決しないし、あとあと余計にめんどくさいことになるだけだ。だったら平然とした顔をして、何も気にしていないふりをする方がいい。周りにとっても自分にとっても。

 そういう理屈で自分を納得させてなんとか生きていた。でも、一度湧いてしまった怒りは決してなくならない。もしなくなるとすれば新たな別の感情に変化するだけだ。

 そうして、「ポジティブの仮面」をかぶればかぶるほど「無視された感情の総体」はどんどん大きくなった。むしろ、「また今回もこの怒りは『感情』として認識してもらえなかった」という、自分自身に対する余計な怒りも生んでしまっていた。「ポジティブの仮面」をかぶった回数だけ、雪だるま式にネガティブな感情が増えていく構造になっていたのだと思う。

 コロナ禍前なら、飲み会や旅行で、蔑ろにされ、行き場を失った感情たちが暴れ回る機会をつくることができた。でも、そのような機会を失ったことで、「どこかで処理されるはずだった感情のカス」みたいなものが、心の底に少しずつ沈殿していくことになった。

 その結果発生したのが、私の「心のねじれ」であり、「猛烈な疲弊感」だったのだろう。すべてのパーツがぐにゃりとひん曲がり、ばらばらの方向へ散らかっていってしまうようなあの摩耗感は、心のエラーを強く訴えかけてくれていた。

 私は「ポジティブであらねばならぬ」というプレッシャーによって、自分で自分を殴り続けていたのだ。

メンタルの問題を本質的に解決してくれたもの

「ポジティブでいなければ」というプレッシャーはときに暴力となり、心の中を暴れ回り、本来アウトプットされるべきだったはずの感情が外に出る機会を食い潰す。心の壁を殴り続ける腕力は最初は弱かったとしても、時間が経てば経つほど強くなり、無視すればするほど彼らはマッチョになっていく。育った剛腕と大きな体を振り回し、えんえんと泣きながら、彼らは私たちの心にヒビを入れていく。

 さて、ならばその後どうしたらいいのかという話だが、結局のところ、一般論的になってしまうけれど、

・ネガティブな感情の存在を受け入れる
・そもそもネガティブな感情がなるべく生まれないような環境をつくる
・ネガティブな感情が生まれたときに発散させてあげられる手段を手に入れる

 くらいしか、現実的にできる手段はないだろうと思う。私も結局、時間をかけることで「心のねじれ」はある程度解決したが、一発でバチコーン! 効きました! みたいな方法を見つけることは、ついぞできなかった。

 ただ、一つ付け加えるとすれば、再現性があるかはわからないのだが、実は私の心をいちばん癒してくれたのは、筋トレより読書より朝活より何より、この「心のねじれについて研究し続けた1年強の時間」そのものだった。自分について知ろうとする時間が、私に安らぎを与えてくれていたのだ。

 自分の心の中について想像を広げ、言葉にし、その輪郭をなんとか掴もうと試行錯誤した。都度、日記に心の状況を微細にメモし、変化をチェックした。「心」についての本を読み、情報を集め、さまざまな角度から自分の心について考察した。

 その理解しようという行為そのものが、私にとっては救いになっていたのだと思う。先人たちが残した研究結果には、多くの学びがあった。世界には私と同じ悩みを持つ人が、「持っていた」人がこんなにたくさんいるのかという事実にも、私は救われた。生まれた時代や地域が違えど、私たちは同じ悩みを持っていた。「悩み」によって私は、シェイクスピアとだって太宰治とだってつながることができたのだ。

「学び」は、私たちが思うよりはるかに強い力を持っているんじゃないか──そんなことを私は思った。メンタルの問題を本質的に解決してくれるのは実践的なハウツーより何より、学問だ。

「何かを学ぼう」という姿勢ほど、尊いものはない。私を救ってくれるものはない。息も絶え絶え、前に進むのすら辛いときに支えになってくれたのは、「学び」だった。「私は今日も新しいことを学べた」という強い実感こそが、私の足を前へ進ませてくれた。「明日、私の心はどうなっているだろう」という興味が、マイナス1億にまで落ち込んでいた心を、ちょっとずつゼロに近づけてくれた。

 自分の完璧な理解者になる必要はない。「自分のことがわからない」でも全然いい。大事なのは、わからないならわからないなりに、自分という学問を追究せんとする姿勢を、自分に対して示すことだ。その学ぼうとする姿勢こそ自分への「敬意」であり、いわゆる「自己肯定感」の本質なのではないかと、この経験を通して、そんなことを思った。

 今でもときどきポジティブの暴力で、自分で自分を殴りそうになることがある。そんなときは目を閉じ、じっと考え、体育座りの小さな子どもを思い浮かべる。ゆっくりと呼吸をし、その子の隣に座り、話し出すのをひたすらに待つ。

「あなたの話を私は聞くよ」と、私は言う。その言葉だけで、生きていていいような気がしてくるのだ。

「ポジティブの暴力」にあなたが殴られ倒れる前に川代紗生(かわしろ・さき)
1992年、東京都生まれ。早稲田大学国際教養学部卒。
2014年からWEB天狼院書店で書き始めたブログ「川代ノート」が人気を得る。
「福岡天狼院」店長時代にレシピを考案したカフェメニュー「元彼が好きだったバターチキンカレー」がヒットし、天狼院書店の看板メニューに。
メニュー告知用に書いた記事がバズを起こし、2021年2月、テレビ朝日系『激レアさんを連れてきた。』に取り上げられた。
現在はフリーランスライターとしても活動中。
私の居場所が見つからない。』(ダイヤモンド社)がデビュー作。