ある程度のペナルティを受ければ
「水に流す」伝統的倫理観

 ご存じのように、日本社会では企業や有名人が何かしらの不祥事をやらかすと、「みそぎ会見」をすることが暗黙のルールとなっている。

 謝罪会見を開いて、フラッシュを浴びせられながら頭を深々と下げて、記者から厳しい質問や時に罵声を浴びせられながらじっと我慢をする――。そんな「社会的制裁」を受けないことには、「反省している」と認められず、セカンドチャンスさえ与えられない。

 ただ、これは裏を返せば「みそぎ」さえ済んでしまえば、そこまで徹底的に追いつめられないということでもある。

 ある程度のペナルティを受けさえすれば、「誰が悪い」「何が根本的な問題なのか」というところまでは追及されない。玉虫色の解決というか、なんとなくウヤムヤなまま「水に流す」という日本人のある種の「情け」を、「みそぎ」という文化からは感じられるのだ。

 これは「不浄」「穢れ」を水で洗い清めることで「禊」が済んだとして受け入れてくれる、という神道的な発想に基づく日本の伝統的倫理観だという人もいて、「水に流す」も「禊」という水を用いた神道の儀式からきたという説もある。

 個人的にはこの考えには非常に共感する。報道対策アドバイザーとしてさまざま企業の不祥事対応を手伝ってきたが、そこで「みそぎ」に何度も助けられた経験があるからだ。

 例えば、ある企業で不正が発覚して、記者から厳しい質問がたくさん投げかけられ、批判的な報道が氾濫し、ネットやSNSでもボロカスに叩かれていても、「みそぎ会見」をうまく成功させた途端、急に収束する。

 具体的には、それまで厳しく追及されてきた経営者の責任や、不正の根本的な原因などがスルーされる。社長が頭を下げているニュースが日本中に流れることで「十分に社会的制裁」を受けたということで、「撃ち方やめ」となり、バッシングが幕引きとなるのだ。

「こんな会社はつぶれた方がいい」「経営陣が辞任するまで徹底追及すべき」なんて鼻息荒く叫んでいた人たちも別人のように静かになって、広報への問い合わせや、お客様センターへのクレームもパタリと消える。そんな風に社会からバッツシングを受けていた組織が「みそぎが済んだ」と思われた途端、急に社会から許されるという現象をこれまで幾度となく見てきた。

 そういう経験から言わせていただくと、今回の「旧統一教会問題」のクールダウンも、不祥事企業が「みそぎ会見」を成功させると急に叩かれなくなる現象と丸かぶりなのだ。