日本の喫茶店が
抽出方法を磨いた理由

 コーヒーといえば、切っても切り離せない存在が喫茶店だ。コーヒーが日本で爆発的な人気となるきっかけは「カフェー」だったという。

「19世紀末には、フランス・パリでカフェが再隆盛を迎えていました。日本から訪れた留学生たちは、パリのカフェ文化に触れ、帰国後も忘れられなかったようです。そうした留学経験のある文人たちの影響を受けて、日本でも『カフェー・プランタン』や、現在の『銀座ライオン』に連なる『カフェー・ライオン』などが開業しました」

 当時のインテリ・文化人が集まり流行の最先端となったカフェだったが、会員制のプランタンや料理が中心だったライオンと比較して、コーヒーに重きを置いていたと見られているのが「カフェー・パウリスタ」だ。

「パウリスタが当時の人々にウケた理由は、ズバリ安さです。ブラジルとつながりの深い水野龍という人物が開いたカフェで、コーヒー豆を過剰生産して供給先に苦慮していたブラジルと生豆の無償提供の契約を結んだため、品質の良いアラビカ種のコーヒーを安価で提供できたのです。庶民や学生の間で人気を博し、作家の芥川龍之介なども訪れていたようです」

 上流階級の人々の間ではすでになじみつつあったコーヒーが、さらに庶民にまで広まった大きな理由として「カフェー・パウリスタ」の存在が大きかったのだ。

 その後、日本のコーヒー文化にとって冬の時代であった第2次世界大戦を経て、1960年代になると、日本もアメリカ主導の国際コーヒー協定に組み込まれた。この国際協定に参加したことで、日本もコーヒー消費国としてコーヒー豆を多く輸入するようになった。

「日本は消費振興のための『新市場国』と位置付けられたため、低品質な豆が流れ込んできました。質は高くなかったとはいえ、手軽に安くコーヒーが購入できるようになったのは、この頃からです」

 また、1970年代は脱サラして喫茶店を始める人が多かった、と旦部氏は語る。

「いざなぎ景気が終わった頃、脱サラして喫茶店を始めようと考える人が増えました。個人で始めた喫茶店で仕入れることができるコーヒー豆は、それほど質が高くありません。そこで、雨後のたけのこのように増えたライバルの喫茶店と差をつけるため、ドリップやサイフォンなど、自分の店に合う抽出方法に磨きをかけて、競い合うようになります。実は、喫茶店が抽出にこだわるというのは、各国の歴史を見ても類がありませんでした」

 アメリカの場合は、コーヒーに特化した専門の輸入業者がいて、味にこだわろうとする店は良い豆を仕入れる方に力を入れていた。ただし抽出の方はまとめて淹(い)れるスタイルが当たり前で、あまり注目はされなかった。一方、日本では、良い豆を仕入れられなかったため、抽出方法にこだわらざるを得なかった。

 こうして、日本独特の職人気質が、世界的に珍しいコーヒー文化の発展につながっていたのだ。アメリカでエスプレッソが流行する前に、日本では注文を受けるたびに1杯分ずつコーヒーを淹れる「一杯淹(だ)て」の手法が広く普及していたというから驚きだ。