「日本でノンアルコールビールが流行したといわれている大正末期。当時、市場に出回っていたのは、泡立て剤と苦味エッセンスを混ぜただけの“まがいもの”だったそうです。そこで創業者である石渡秀は、“本物のノンビア”を造るべく研究開発を始め、1948年に東京の赤坂でホッピーが生まれました」

 こうしてホッピーは、職人気質な創業者の“こだわり”によって完成した。「本物のノンビアの元祖」であることを象徴するエピソードだ。そこから約50年の時を経て、3代目の石渡社長により、同社は大きな転換期を迎える。

かつての“オヤジの酒”を
“ダサかわ”にイメージ刷新

 二つ目のストーリーは、ホッピービバレッジの「成長」劇だ。石渡社長が97年に入社し、創業100周年に当たる2010年に3代目社長に就任すると、同社は急成長を遂げた。

 その背景には、いくつかの好機が重なったという事情もある。たとえば、00年以降の健康志向の高まりと女性起業家の台頭、02年の道交法改正(飲酒運転厳罰化)によるノンアルコールドリンクの流行、05年の映画『ALWAYS 三丁目の夕日』のヒットによる昭和レトロブームなどだ。

 そんな中で、“オヤジの酒”のイメージが強かったホッピーの会社を、女性が継ぐというギャップも話題となる。石渡社長はこれらの好機を逃さず、積極的にメディアに露出して、ホッピーのブランドイメージを刷新。デザインの一新など多岐にわたる改革を断行し、ホッピービバレッジの快進撃の原動力となった。

「入社当時、ホッピーに対する世間のイメージは“絶滅危惧種”“ダサい”など惨憺(さんたん)たるもの……。しかし、そこが魅力でもあったため、ダサくてかわいい“ダサかわ”な部分などを押し出しました。ラベルもホッピーの従来のイメージは残したまま、文字を縦組みから横組みに変えてフォントも太くしたり、トレードカラーである赤と黄の明るさを変えたりと、試行錯誤。02年に約8億円だった売り上げは、19年に過去最高の40億円以上を達成しました。この数字は、先代と先々代が堅実な経営をしてきたからこそ、達成できたのだと思っています。そして、『いよいよこれから新しいステージに進むぞ』と思っていた矢先の19年夏、先代が逝去し、ほどなくしてコロナが到来しました」

 ドラマチックなサクセスストーリーから、一気にピンチを迎えるも、

「“禁酒令”(時短営業と酒類提供の制限)が出たことで首都圏の居酒屋は壊滅的となり、弊社もだいぶダメージを受けました。元々、ホッピーは出荷の8割が首都圏。経営戦略として、やみくもに経営資源を分散させるよりも、地元である首都圏のお客様一人一人と信頼関係を築いていき、ゆるぎないマーケットを創り『東京ドリンク』として発信していきたいと考えてきたためです。しかし、コロナ期に入り厳しい状況ではありましたが、有り難いことに全国にいらっしゃる多くのホッピーファンの方々のおかげで、なんとか持ちこたえることができました。感謝の念に堪えません」