1976年の初版版発刊以来、日本社会学の教科書として多くの読者に愛されていた小室直樹氏による危機の構造 日本社会崩壊のモデル』が2022年に新装版として復刊された。社会学者・宮台真司氏「先進国唯一の経済停滞や、コロナ禍の無策や、統一教会と政治の癒着など、数多の惨状を目撃した我々は、今こそ本書を読むべきだ。半世紀前に「理由」が書かれているからだ。」と絶賛されている。40年以上前に世に送り出された書籍にもかかわらず、今でも色褪せることのない1冊は、現代にも通じる日本社会の問題を指摘しており、まさに予言の書となっている。【新装版】危機の構造 日本社会崩壊のモデル』では、社会学者・橋爪大三郎氏による解説に加え、1982年に発刊された【増補版】に掲載された「私の新戦争論」も収録されている。本記事は『【新装版】危機の構造 日本社会崩壊のモデル』より本文の一部を抜粋、再編集をして掲載しています。

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天才・小室直樹が語った「日本風土における経済学の限界」

 数年前(1976年現在から遡って)、当時のヌードセン・フォード自動車会社社長が、フォード二世に首切られたことがあった。このニュースを聞いたとき、私のある友人は、思わず、なんとひどいことを、といった。彼の意見によれば、フォード二世がヌードセンを社長に任命するときには、自分のほうから頭を下げて無理にGMから来てもらったのに(ちなみに、フォードに来る前には、ヌードセンはGMの副社長であった)、それに彼の努力によってフォード社の業績も上がっているのに、一方的に突然首を切るなんて、あまりにもひどすぎるというのである。これではもうフォードのために働く人などいなくなってしまうだろうともいった。これはこの友人だけでなく、大部分の日本人の気持だろう。だが、これが資本主義というものなのである。

 私の友人の感想は、直接の人間関係がそのまま規範化されるような共同体倫理が成立する社会においては正しい。だから、共同体倫理が支配的な日本だったら、いくらワンマン会長でもこんな首切りはできないであろう。たとえ、首切るとしても、社長の立場や気持や面子についてデリケートな配慮をし、後の面倒も十分にみてやれるだけの準備がなければ、とうてい首切れたものではない。

 ところが、資本が完全に資本家の私有物にすぎない社会においては、事情は根本的に異なってくる。すなわち、資本家が労働者に対して束縛される義務は、雇用契約に忠実であるということだけである。この条件のもとであれば、いつ、だれの労働力をどれだけ購入しようと全く自由であり、非難される理由はない。社長の労働力として、ヌードセンを購入しようと、アイアコッカを購入しようと全く自由である。もちろん売るほうもフォードに売ろうと、GMに売ろうと、これも全く自由である。それだからこそ、突然なんの理由もなく首切られたヌードセンがまずなしたことは、フォード二世の態度を攻撃して非をならすことではなく、いわんや、彼の不人情さについて恨みつらみを並べることではなく、自分の弁護士に相談してなるべく有利な補償を得ることであった。

 このように、資本は資本家のものであり、労働力は労働者のものであり、しかもそれぞれ、完全に自分だけのものであるから、煮て食おうと焼いて食おうと勝手だという認識こそ資本主義のテーマである。もとより、現実においては、多くの修正が加えられるであろう。それであっても、このテーマが多くの修正の間を貫徹して存在することは、欧米資本主義の場合には疑いをいれない。

 日本では、もとより、こんな具合にはゆかないであろう。ある有名なベストセラー出版社でストがあった。ストの原因は、経済的要求ではなく、社長の乱脈経営にあった。もっとも乱脈といっても、その結果事業が不振となって組合員の生活を不安ならしめるといった性質のものではない。事業は大発展をなしつつあり、社員の給与もなみはずれてよいのであるが、社長がワンマンでえこひいきが多すぎ、株主とグルになって会社を私物化するというのである。組合の勢いがあまりにも激しかったため、社長は姿をくらまし、経営陣はうろたえるばかりである。

そこでついに、組合の鋒先は株主の経営責任の追及ということになった。このストは、ジャーナリズムの好餌となり、まもなく広く知れわたるが、それでもほとんどの日本人は、労働者が「株主の経営責任」を追及することが、いかに資本主義のエトスとは異質的なものであるかについて、全く気づかなかった。いうまでもなく、資本主義社会においては、経営責任とは、経営者が株主に対してだけ負うものである。

 そして、株主は、会社の経営、財産管理がいかなるものであろうと(もちろん、公害などの責任を別にすれば)、他人に対して責任を負う理由は少しもない。もとより、はじめから私物である会社を私物化するなどということは、定義上無意味なのである。

 このように、日本「資本主義」は、欧米における資本主義とは根本的に異なる。ゆえに、そこにおいて貫徹し作動する法則も異なったものとなることはいうまでもない。欧米における資本主義をモデル化した経済学の有効性がごく限られたものとならざるをえないのもこの理由によるのである。しかも、現実における「資本主義」経済は、古典時代のそれとは重要な多くの点において異なったものとなってしまっている。したがって、現在(1976年当時)の日本においては、二重の意味において経済学の有効性は限界を持つことになってしまった。では、この資本主義の変貌はいかなるものであろうか。