輸出産業が中心の日本では円高不況の到来が危惧されたが、影響は限定的だった。むしろ翌年に成立した田中角栄内閣の「日本列島改造論」によるさらなる開発、成長への期待が寄せられていた。

 第二次世界大戦の戦後体制の転換が急速に進む中、1973年は大戦を遠因とする戦争が、一つは終わり、一つは再燃した。つまり同年1月にインドシナ紛争から数えて27年続いた泥沼のベトナム戦争の和平協定が調印され、一方で10月にはイスラエルとアラブ諸国による第四次中東戦争が発生した。

 第四次中東戦争が引き起こしたのがオイルショックである。アラブ産油国は親イスラエルの欧米諸国に対し石油禁輸措置を取り、また石油輸出国機構(OPEC)も原油価格の引き上げ、原油の減産を決定したことで、エネルギー価格が急騰。先進諸国は経済成長率の低下とインフレに苦しんだ。

 日本経済に与えた影響も甚大で、政府は同年11月16日に「石油緊急対策綱領」を閣議決定し「総需要抑制策」に踏み切った。その3日前、11月13日に整備計画を決定したばかりの新幹線新規建設(いわゆる整備新幹線)や、本州四国連絡橋3ルートの着工延期など、公共事業の大幅削減、延期、凍結が決定した。この結果、翌1974年は物価上昇率23%、戦後初のマイナス成長となり、高度経済成長は完全に終焉(しゅうえん)した。

 そんな歴史の大転換の余波は、首都圏の鉄道事情にも波及していたといったら言い過ぎだろうか。1973年3月13日朝、国鉄高崎線上尾駅で発生した「上尾事件」である。

上尾事件において
乗客が暴徒と化した理由

 その日も列車は大幅に遅れていた。所定6時54分発上野行き列車は14分遅れてホームに到着したが、既に車内は満員で多くの乗客は乗り込むことができなかった。

 乗れなかった乗客数人はドアを抑え、発車を妨害。そこに後続の列車が到着し、隣のホームに停車したが、乗客はこの列車の発車も許さなかった。この日は群馬県の高校入試当日だったこともあり駅員は妨害をやめるよう呼び掛けたが、乗客はだんだんとヒートアップしていった。

 ついに群衆は駅舎に乱入し、駅長や助役をつるし上げ、設備の破壊を始めた。当時の高崎鉄道管理局営業部長は多数の乗客に取り囲まれ「責任者は誰だ、出てこい」「台の上に登って釈明しろ」「今日出社できないことに対し、責任をとれ」「俺の1日分の給料は3000円だぞ、補償をしろ」と詰め寄られたという。

 なぜ乗客は暴徒と化したのか。それは、この遅れが人為的に引き起こされたものだったからである。