鎖国で新作物が入らず
餓死者が多かった徳川時代

 全国の石高は、太閤検地の1850万石から、江戸初期の表高が2200万石、八代将軍吉宗の頃で3000万石になり、あとは、飢饉などもあって横ばいだった。

 つまり、江戸時代後半には、人口3000万人で米の収穫が3000万石。つまり、老弱男女含め1人玄米換算で年に1石(150kg)。だいたい、一日5合の米を消費していたわけで、十数杯のご飯を漬物、みそ、小魚など貧弱なおかずで食べていたのである。

 どうして、米がこんなに栽培されたのかというと、ひとつには、鎖国していたので、トウモロコシ、ジャガイモ、トマト、落花生などの新大陸由来の作物が入らなかったからだ(サツマイモだけは琉球から入った)。

 米のモノカルチャーだから生産力も上がらず、冷害などにも弱く飢饉が続発した。このために、康煕帝・雍正帝・乾隆帝といった名君が続いた清国では飢饉もなく人口も3倍に増えたのに、徳川幕府の無能のために日本では横ばいだった。

 清国はアヘン戦争以降は経済が崩壊しておかしくなったが、それまでは、人口停滞・餓死者続出の徳川日本と比べて善政を敷き発展をしていたのである(今また日本は中国にGDPで逆転され、その時代の入り口にいるようだ)。

 また、税制が米の年貢を主軸にしたので、税収確保のために各藩は米以外の作付けを抑圧した。そうすると、米が需要以上に栽培されるので低米価になり、租税負担率も減ったことで農家と武士の貧困が進んだ。

 そして、恒常的に農地が余って農民が足りなくなり、農民の逃散防止が各藩の政策になったり副業を禁止したので、何重もの意味で東日本などの藩や幕府領の経済成長率は低くなった。そこで寛政・天保の改革などでぜいたくをさせない、つまり「GDPを抑えることで租税負担率を維持する」という倒錯した経済政策を取った。

 それに対して、近江のように新田開発余地のない地域では農民が行商をしたりすることが歓迎されたし、薩長土肥のように、気が利いた藩では、米の年貢にかかわらず、特産品産業の育成や専売制などで利益を上げた。この結果、GDPも順調に伸びた(変わり種は米沢藩で、上杉鷹山が農民には副業を禁止し、人員過剰の武士に限定して商工業をやらせた)。

 また、薩摩では琉球を使って貿易を拡大し、長州は下関に蔵を設けて、日本海側の各藩から運び込まれた米を、大坂市場の相場を見ながら出荷して利益を上げた。

 その結果が、明治維新であって、薩長土肥は偶然の勝者ではないのである。

(徳島文理大学教授、評論家 八幡和郎)