出陣した宗全は大活躍し、追いつめられた満祐は自害した。すると功を誇った宗全は播磨で寺社や公家の荘園を侵略し始めた。後花園天皇に侵略禁止命令を出してもらうという案が出たが「宗全のような乱暴者は天皇の命令にも従うまい。かえって天皇の権威に傷がつく」と慎重論が出て、立ち消えになった。

 そして拙著『応仁の乱』(中公新書、二〇一六年)で指摘したように、応仁の乱のきっかけも宗全によるクーデターだ。このように見ると、宗全は下剋上の申し子に映る。

下剋上する立場ではなく、既得権益側にいた山名宗全

 だが、意外と保守的なところもあった。クーデターを起こした宗全は、娘婿の斯波義廉(しばよしかど)を幕府ナンバー2の地位である管領(かんれい)につけて幕府の実権を握った。なぜ自ら管領にならなかったかというと、管領になれるのは細川・斯波・畠山の三家のみという慣例があったからだ。宗全は幕府のしきたりを尊重したのである。

 幕府内での大名の序列は、大まかに言って、現管領、管領家(細川・斯波・畠山)、足利一門大名、非足利一門大名というものである。山名氏は足利一門大名なので、赤松・土岐(とき)・佐々木・大内といった非足利一門の大名より家格が上である。確かに山名氏の家格は細川氏よりは低いが、全体から見れば高い部類である。その意味で宗全は既得権者であり、旧来の体制を破壊する革新者にはなり得ない。

旧来の秩序に即する一面も

 応仁の乱の最中、西軍の主力諸将の連名で出された命令書には、管領家の斯波義廉や畠山義就(よしひろ)が宗全より上位に署名している一方、西軍の最有力大名だが家格は低い大内政弘は名前すら連ねていない。西軍の中心人物である宗全が、家格を基準に、西軍大名を序列づけていたと考えられる。

 加えて、宗全は公家や僧侶などとも文化的な交流をしていた。一例を挙げよう。連歌七賢の一人である高山宗砌(そうぜい)は、山名氏の家臣である高山氏の出身であり、宗全と親しかった。享徳(きょうとく)三年(一四五四)十二月、八代将軍足利義政から隠居を命じられた山名宗全が分国但馬に下向すると、宗砌も但馬に下り、翌年但馬で死去している。宗全は古典的教養を備えており、既存の秩序に親和的な側面も有していたのである。

 よって宗全は、家柄や身分が重要な時代から実力主義の戦国時代へと移行する過渡期を象徴する人物といえる。