臣下が将軍をすげ替える

 将軍に対する反逆が成功した事例は、過去にないわけではない。しかし先にも紹介したように、嘉吉元年(一四四一)に赤松満祐が六代将軍足利義教(足利義政の父)を暗殺しているが(嘉吉の変)、満祐はその年のうちに幕府軍に滅ぼされた。

 一方、細川政元が擁立した足利義澄は後土御門(ごつちみかど)天皇から征夷大将軍に任命され、謀反を起こした政元が幕府の実権を握った。畠山政長は自害し、足利義稙は逃亡した。まさに下剋上である。明応の政変を戦国時代の開幕とみなす研究者は、臣下が将軍を廃立するという前代未聞の事態を重視しているのである。

「正体無き者は王とも存ぜざる事なり」

 細川政元は、明応の政変後、それまで領国でなかった山城国・大和国・河内国へ派兵して、細川氏歴代で最大の領国を形成した。幕府内で政元に対抗できる大名は皆無となった。

 さて中世では、天皇は高齢になる前に譲位することが慣例であった。ところが後土御門天皇は、明応九年(一五〇〇)に五十九歳で亡くなるまで在位し続けた。これは朝廷にお金がなかったからである。平成の天皇が退位した時も皇位継承の重要祭祀「大嘗祭(だいじょうさい)」の費用が議論になったが、今も昔も天皇の交代時にはもろもろの儀式が行われ、多額の費用がかかる。

 室町時代には儀式のために幕府が朝廷に経済的援助を行ったが、応仁の乱で幕府が弱体化すると、それも困難になった。幕府は後土御門天皇の葬儀費用もなかなか負担しようとせず、葬儀が執り行われたのは崩御から四〇日以上たってからだった。

 とはいえ、後土御門天皇が崩御した以上、新天皇は不可欠である。後土御門天皇の第一皇子が跡を継いだが(後柏原〈ごかしわばら〉天皇)、即位式の金がない。例によって幕府に援助を申請したが、財政難の幕府は援助を渋った。