本質からずれた論点(1)
「高齢者が優遇されすぎている」

 一つ目の論点は、「高齢者があまりにも優遇されすぎている」という訴えだ。

 確かに、筆者もそう思う。貧困は高齢者だけの問題ではないにもかかわらず、医療費や公共施設の入場料、公共交通の運賃など、なぜか高齢者というだけで無料であったり、価格が異常に安かったりする。東京都中央区では、高齢者というだけで毎年、歌舞伎座の一等席で観劇し、豪華幕の内弁当が食べられる。高齢者は、税金によって無料だ。

 戦争を経験した世代については、ウクライナ戦争を見ても、やはり国家のために理不尽な思いをした人が多いので、多少の優遇を受けるのは理解できる。しかし、これから後期高齢者となる団塊の世代は高度経済成長やバブルなど、ありとあらゆる恩恵を受けてきた世代である。高齢者というだけで、なぜサービスの対価を支払わなくていいのか。

 しかし、この論点は正直、少子化対策とは何の関係もないはずだ。一連の子育て世代へのバラマキによって、政府による高齢者から若い世代への所得移転が行われるのは間違いないが、そもそも政策の本来の目的とは違うということだ。

本質からずれた論点(2)
子どもに「教育機会の平等」を

 二つ目の論点として、教育における「機会の平等」を子どもたちに与えようという意見が挙げられる。子育て支援を手厚くすることで「親ガチャ」を無くし、貧困を理由に進学の機会を失うことがないようにしようというものだ。

 個人的にはこの論点については完全には同意しかねる。中卒でも高卒でも立派に働いている人はいるし、そもそも大学に通っていることに何の意味も見いだせていない若者は多い。私立学校に税金を投入することで、国家からの指導が強くなり、各学校の個性を殺してしまいかねないのも心配だ。同質性の高い社会ほどもろく弱い社会はない。学校教育は自由が一番だ。

 そんな筆者の意見は横に置いておくとしても、やはりこれも一つ目の論点と同様に、少子化対策とは関係のない話だ。

 なぜこの話を先にしたのかというと、この一つ目、二つ目の論点に基づいて「岸田首相の異次元の少子化対策」を称賛する識者がたくさんいるのが確認できるからだ。