ハンセルは、焼夷弾爆撃をどのように実行するか、その方法についてルメイの独創性を認めていた。リスクが大きな作戦であるため、ハンセル自身にはとても決断できないことだったという。その一方で、焼夷弾を使う空爆自体は、上層部からの命令に従っただけで新しい作戦ではないと証言している。

「B-29を使った焼夷弾による都市空爆については、ルメイ自身の決断ではなかった。それは少なくとも1年以上前の基本計画において、すでに考えられていたものである。
 ご存じかもしれないが、我々は実際、実験のために日本風の村々を築き、焼夷弾を試してみた。つまり、そのアイデア自体は、彼の決断よりもずいぶん前に練られていた訳で、焼夷弾を持ち合わせていたという事実は、その決断が最後の最後に下されたというわけではないということを示している。
 ただ、私たちは、『実際にその作戦が行われるべきではない』ということについて合意していた。それを昼間爆撃として、バラバラに行うということは非常に危険なことであった。敵の激しい反撃に遭う可能性があったからだ。だから、もしそれを行うのならば、記憶に残るように非常に大規模に、激しく行う必要があった。当時、私が指揮していた頃には、その準備ができなかったので、焼夷弾による攻撃を先送りにしてきたのである」(肉声テープより)

 ハンセルの認識によれば、当初、焼夷弾による空爆は、危険を伴うため実行するべきではないとアーノルドらと合意していたという。危険に見合った成果を残すためには、大規模なB-29の部隊を編成して実行する必要があったが、ハンセルが指揮していた時には、その準備が整わず実現できなかった。だが、ルメイが指揮するようになってから、その状況が変わったというのだ。

「ルメイが実行する3月の東京大空襲までに3つの状況が偶然発生した。1つは、大規模な攻撃を実行できるだけの十分なB-29が揃ったこと。2つは、予測されていたほどには日本の空軍が強力なものではないことがわかったこと。3つは、私たちは、どのような精密爆撃の成功も見込めない日本の天候があることを知ったこと。こういったことをすべて考慮すると、その他の手段よりずっと容易で単純、そして安全な焼夷弾による空爆作戦について肯定的な結論が出てくるのは自然なことだった」(肉声テープより)

 偶然にも、焼夷弾爆撃を実行するための条件が揃ったというのだ。もちろん、そのときの現場の指揮官が、リスクを冒す覚悟を持ったルメイであったことも大事な要素の一つだったのだろう。アーノルドが切羽詰まった状況に置かれていたこともある。いくつもの偶然が積み重なった。そして、史上最悪とも言える悲劇へと向かって転がっていったのだった。